運慶の後継者たち―康円と善派を中心に@東京国立博物館 本館
つい先日、東博平成館で運慶展を観ました。その余韻のあるうちに復習がてら、本館で展示されている慶派の作品を観に行きました。
本館 14室 運慶の後継者たち―康円と善派を中心に
鎌倉時代に活躍した仏師運慶(うんけい、?~1223)に連なる一派を慶派(けいは)といいます。運慶は数多くの仏師を擁する工房を営み、数々の造仏を手がけました。その写実を基本とした、量感豊かで力強い作風は、新興の武家のみならず、寺社や公家をも魅了し、後の世代にも大きな影響を与えました。なかでも運慶の孫にあたる康円(こうえん、1207~?)は、当時の慶派を代表する仏師として注目すべき存在です。
康円と同じ頃に活躍した仏師、善円(ぜんえん、のち善慶(ぜんけい)と改名、1197~1258)も見逃せません。善円らの系統の仏師たちを善派(ぜんぱ)と呼んでいます。善派は慶派の本流とは一線を画し、奈良を中心に活動していたことが遺品からわかります。
本特集では、康円および善円の作品を中心に、運慶以後の鎌倉彫刻の展開について紹介します。
以下、気になったものをメモとして残します(◎は重要文化財)。
《文殊菩薩立像 1躯 鎌倉時代・13世紀》
仏師善円(1197-1258)の初期の作例である奈良国立博物館十一面観音立像や米国アジア・ソサエティ地蔵菩薩立像と作風が酷似し、善円の作とみて間違いない。これらは像高も一致することから、5躯一具の春日本地仏(四所明神と若宮)中の3躯の可能性もある。
頭に5個の髻をつくる五髻文殊として表される。目尻を上げた涼しげな顔立ち。脚の衣紋を細かく刻むのが特徴的。衣の模様も美しい。
《◎地蔵菩薩立像 1躯 善円作 鎌倉時代・延応2年(1240) 奈良・薬師寺蔵》
左手に宝珠、右手に錫杖を執る三尺の地蔵菩薩像で、飛雲に乗り、腰をかがめて上体を前傾させ、右足を踏み出す大きな動勢の表現に特色がある。来迎、あるいは春日明神の本地仏としての影向のさまを表したものとみられる。
本像の願文に善円の年齢四四歳とあり、生年が既に知られている善慶のそれと一致し、活動期間も重なることから善円が善慶と改名したと推定されている。運慶や息子たちが所属した仏師集団である慶派に後から加わった可能性。
《◎菩薩立像 1躯 鎌倉時代・13世紀》
正式な名称は知られないが、類品からは弥勒菩薩と考えられる。鎌倉時代には木彫の一部や装飾に異なった材質を用いる例が増えた。目に水晶をはめる玉眼はその代表的な例で、本像は上下の唇にも彩色の上に薄い水晶板をあてる玉唇とでもいうべき技法を用いて、生々しさを醸している。さらに肌に金泥を施すのも含めて、未来に到来する仏に現実感を与えている。特徴的な切れ長の目は善円の作風に通ずる。
衣の彩色が非常に細やかで美しい。
《◎文殊菩薩坐像(文殊菩薩騎獅像および侍者立像のうち) 1躯 康円作 興福寺伝来 鎌倉時代・文永10年(1273)》
獅子の背の蓮華座に結跏趺坐し、右手に智慧を象徴する利剣、左手に経典を乗せた青蓮華を持つ。化仏を乗せた宝髻があるのは、経典に「童子相」とあることに由来する。文殊の知恵が子供のように清らかであることを示す(髻の数は像によって一、五、六、八の四種類があり、それぞれ一=増益、五=敬愛、六=調伏、八=息災の修法の本尊とされる)。
本作は、獅子に乗った文殊菩薩に4人の侍者が従う五台山文殊、いわゆる渡海文殊の作例で、中国における文殊の聖地五台山信仰を背景に産まれた図像に基づくが、海を渡る表現は日本に独特のものである。
獅子の頸部矧ぎ目の銘文と体内に納入されていた文書から、文永10年康円の作と知られ、のちに興福寺勧学院本尊となったことがわかる。康円(1207~?)は湛慶の後継者。造立を発願した施主経玄は興福寺の僧で、この五尊像は12年後の弘安8年(1285)に創建された興福寺勧学院の本尊に据えられた。
《◎獅子像(文殊菩薩騎獅像および侍者立像のうち) 1躯 康円作 興福寺伝来 鎌倉時代・文永10年(1273)》
文殊が乗る獅子は力強く表現される一方で、愛嬌のある顔がほほえましい。堂々と胸を張る姿で、髪の毛が丸まるのは、鎌倉時代以降の獅子・狛犬に共通する。足元の岩座下に描かれる波は渡海の様子を表すが、獅子とともの制作当時の姿を伝えるのは貴重。
《◎光背および蓮華座(文殊菩薩騎獅像および侍者立像のうち) 1躯 康円作 興福寺伝来 鎌倉時代・文永10年(1273)》
蓮華唐草の透かし彫りが美しい。光背も制作当時のものが現存する。下方には、迦陵頻伽という極楽浄土に住む鳥が楽器を奏でる自由な姿で表されている(右は後世に補ったもの)。彩色や、唐草や蓮弁の筋に沿って丁寧に施された金彩も見どころ。
右《◎仏陀波利三蔵立像(文殊菩薩騎獅像および侍者立像のうち) 1躯 康円作 興福寺伝来 鎌倉時代・文永10年(1273)》
錫杖を手に旅するインド人僧として表される。文殊菩薩の化身である大聖老人に導かれ、もんじゅの聖地にたどり着いたという。骨ばって痩せた姿だが、瞳に水晶板を嵌め、生き生きとした表現を企図する玉眼の効果も手伝い、その評定には強い意志が湛えられている。
右から二つ目《◎善財童子立像(文殊菩薩騎獅像および侍者立像のうち) 1躯 康円作 興福寺伝来 鎌倉時代・文永10年(1273)》
合掌し、文殊菩薩を振り返る姿の童子。童子は文殊菩薩の説法に導かれて53の善知識を訪問し、菩薩行を体得したと『華厳経』に記される。本来は獅子の手綱を引く人物と一揃いで表され、先導する役割を持つ者であった。あどけない顔つきにも少し硬さがうかがえ、康円の指導により、従者は願主みずから鑿を振るったとする見解もある。
右から三つ目《◎于闐王立像(文殊菩薩騎獅像および侍者立像のうち) 1躯 康円作 興福寺伝来 鎌倉時代・文永10年(1273)》
于闐王とは、西域にあったホータン国の王を指すが、もともと獅子や童子と一揃いで表された異国風の人物に由来する。赤ら顔の男がブーツを履いて踏ん張り、眉をしかめながら獅子の手綱を引く姿は明快で、年齢の異なる四人の従者を巧みに作り分けた手腕が賞される。
左《◎大聖老人立像(文殊菩薩騎獅像および侍者立像のうち) 1躯 康円作 興福寺伝来 鎌倉時代・文永10年(1273)》
頭巾を被る老人の姿に表される。文殊の化身であり、インド人僧の仏陀波利を、自身の聖地である中国五台山に導く役割を持つ。皺の刻まれた顔は生々しく、鮮やかに残る衣の彩色と合わせて大変技巧的で、文殊を中心とした群像が演じる劇中に引き込まれる。
本館14室の決して広くないスペースに見応えのある像がずらりと並んでいるので、他の部屋と違って大変混雑していました。運慶展を観終わった後、そのまま流れてくる人も多いのでしょうね。