常温常湿希望

温度20℃湿度50%が理想です。

可愛山稜:日向三代を巡る旅 その8

可愛山陵(えのみささぎ)は天津日高彦火瓊瓊杵尊の陵。高屋山上陵、吾平山上陵とともに神代三山陵の一つである。

瓊瓊杵尊の陵は、『日本書紀」に「筑紫日向可愛山之山陵」とあり、明治政府により1874年(明治7年)、新田神社(現・鹿児島県薩摩川内市宮内町)境内の神亀山が治定された。

 

昭和11年出版の『川内地方を中心とせる郷土史と伝説』に可愛山の名の由来が書かれている。

可愛山と称するは川内川にちなんでの名である。即ち可愛山は借字で『江の山』と書くべきである。川内川が当山の川上から二つに分れ一つは今の川筋で他は可愛山の後を巡りて再び合流し可愛山は其昔、中島であったと言われている。其の入江の水を引いて神殿が出来たので新田の地名が起り、水道を水引と言って之も地名(水引村)となった。可愛山は江の山の義、江は大川を指し(難波江、佳江、高江などの如し)神亀山は山の形状から名づけたのである。

江戸時代後期の安政元年(1854年)、津久井清影著の陵墓集『陵墓一隅抄』の付図『聖蹟図誌』に「薩摩国高城郡水引郷宮内村内瓊々杵命之埃之山稜之圖」として描かれている。
f:id:Melonpankuma:20200115145825j:plain

江戸時代後期に薩摩藩によって編纂された『三国名勝図会』の13巻に「神亀山」が描かれている。
f:id:Melonpankuma:20200116142229j:plain

『三国名勝図会』の14巻には「可愛山稜」が新田神社から谷を挟んで戌亥(西北)の方角に百二十歩の場所にあるとして描かれている。
f:id:Melonpankuma:20200115190841j:plain
この絵では、左の端陵が木花咲耶姫の陵墓、中陵を可愛山陵としている。

新田神社の社殿を左に向かい社務所の前を通って進むと可愛山稜への看板がある。
f:id:Melonpankuma:20200114210514j:plain
猫もいる。

さらに進んで石段を上がる。この階段脇にも老木の楠があった。
f:id:Melonpankuma:20200114210521j:plain

可愛山稜

雑木が茂っている。
f:id:Melonpankuma:20200114210542j:plain
陵は玉垣で囲われ、その内側にある階段の上に石製の神明鳥居と瑞垣が設けられている。

宮内庁による注意書き
f:id:Melonpankuma:20200114210524j:plain
新田神社の賑わいに比べて、大変静かでした。

新田神社:日向三代を巡る旅 その7

  • 一の鳥居
  • 二之鳥居
  • 神橋(降来橋)
  • 門守神社
  • がらっぱ大明神
  • 新田神社旧社殿礎石
  • 末社三社
  • 大楠
  •  子だき狛犬
  • 勅使殿 
  • 手水舎
  • 東長庁
  • 西回廊
  • 東回廊
  • 本殿
  • 社務所

 

鎌倉時代式内社枚聞神社と新田神社とで薩摩国一宮相論が起こったことから、薩摩国には一之宮が二つ存在する。薩摩国一之宮 新田神社(にったじんじゃ)薩摩川内市街地にある神亀山(しんきさん 高さ70m)の山頂にあって瓊瓊杵尊を祀る。川内八幡とも呼ばれる。

 

江戸時代後期に薩摩藩によって編纂された『三国名勝図会』の13巻に「八幡新田宮」として描かれている。平安時代中期に起こった承平天慶の乱を機に、国家鎮護を祈願して石清水八幡宮から勧請されて八幡宮を名乗るようになった。

f:id:Melonpankuma:20200115143608j:plain

 

f:id:Melonpankuma:20200115143620j:plain
新田神社が可愛山稜との関係を主張し始めたのは鎌倉時代に遡る。新田神社は最初神亀山の中腹にあったが平安時代末期に焼失し、後に山頂に遷座した。当時再建の滞りがある中で、宗教的権威を強める目的で可愛山稜との結びつきを強めたと思われる。これにより、八幡宮本来の祭神である応神・仲哀天皇と神宮皇后に加えて瓊瓊杵尊を合祀したと思われる。さらに神格を強調するためか、鎌倉時代中期には八幡宮発祥の地であることを主張し、蒙古来襲後に展開した一宮相論の結果、薩摩国一宮を称し始めた。

 

川内川は南九州最大の河川で、熊本県最南端の白髮岳南麓から宮崎県を経由し薩摩川内市に至る。
f:id:Melonpankuma:20200114192547j:plain

一の鳥居

川内川の辺りから新田神社の参道が伸びる。
f:id:Melonpankuma:20200114192537j:plain
瓦葺きの雨覆いがついた両部鳥居である。雨覆いと笠木の反増がやけに大きく、まるでバッファローの角のよう。

二之鳥居

桜並木の参道を300メートルほど進むと道路を挟んで二之鳥居がある。
f:id:Melonpankuma:20200114192627j:plain
一の鳥居と同じく、これも瓦葺きの雨覆いがついた両部鳥居。

神橋(降来橋)

二之鳥居をくぐるとすぐに銀杏木川に架かる太鼓橋「新降来橋」がある。
f:id:Melonpankuma:20200114192800j:plain

新降来橋に並行して車道用の宮前橋が架かる。
f:id:Melonpankuma:20200114192803j:plain

橋を渡って振り返る。石橋のアーチが美しい。
f:id:Melonpankuma:20200114192822j:plain
写っているのは新降来橋で、上の『三国名勝図会』の絵に描かれている降来橋は、写真手前で見切れている。

降来橋と擬宝珠の案内板
f:id:Melonpankuma:20200114192756j:plain

薩摩川内市指定文化財

降来橋と擬宝珠
昭和61年3月26日指定
管理者 新田神社

降来橋は、明治二十五年十一月に架け替えられた、長さ八メートル、幅五メートルほどの石造太鼓橋です。
 この橋の由来は古く、昔はこの場所に忍穂川が流れており、そこに架けられていました。三國名勝圖會によると、正応三年(一二九〇)新田八幡宮の降来橋において舞楽が催され、多くの見物人が訪れたと記録されています。
慶長七年(一六〇二)島津義弘が、神社の神殿を修復した際、この降来橋の欄干んい刻銘入りの青銅製擬宝珠八個が取り付けられました。現在は外され、宝物殿に大切に保管されています。
川内川から神社までまっすぐ伸びる八丁馬場と呼ばれた参道は、桜の名所となっていて、毎年多くの花見客が訪れます。参道の端の川内川沿いに第一の鳥居があります。この参道の両側には、かつて寺院が立ち並び「新田神社十二坊」と称されていました。
 降来橋と第二の鳥居の間の新降来橋は、昭和六十一に銀杏木川に架けられました。

  平成三十一年三月 薩摩川内市教育委員会

続きを読む

熊襲穴:日向三代を巡る旅 その6

熊襲の穴

国道223号沿い、明治時代に開湯した妙見温泉の中心に位置する石原荘から少し下ったところに「史跡洞窟 熊襲隼人 日本武尊」の大きな立て看板があり、その坂を上ると駐車場がある。熊襲穴までは駐車場から山道を約200m登る。
f:id:Melonpankuma:20200114213347j:plain
駐車場から続く道の途中に鹿児島出身の前衛作家萩原貞行による「神々の想い」が立っている。

白木の神明鳥居をくぐる。
f:id:Melonpankuma:20200114213350j:plain

途中に縄鳥居。
f:id:Melonpankuma:20200114213353j:plain
冬だからよいものの、結構急な階段が続く。

一体どこまで続くんだと思ったところで、目的地らしいのが見えてきた。
f:id:Melonpankuma:20200114213356j:plain
最後の階段が最も厳しい。

隼人熊襲の額がついた門が立っていた。
f:id:Melonpankuma:20200114213400j:plain

 切り立った崖のしたに洞穴がある。
f:id:Melonpankuma:20200114213437j:plain
入口は低く、身を屈めないと進めない。

熊襲の穴案内板
f:id:Melonpankuma:20200114213422j:plain

熊襲の穴

熊襲の穴は、この地点からおよそ五メートルのところにあり、昔熊襲族が居住していた穴で、熊襲の首領、川上鳥師が女装した日本武尊に誅殺されたところで一名嬢着の穴ともいわれます。 第一洞穴は奥行22メートル、巾10メートルで百畳敷位の広さがあり、更に右正面から第二洞穴につながっておりますが、現在入口が崩れて中へ入れません。第二洞穴は、約三百畳敷位の広さといわれております。

入口の右に、洞窟内の照明のスイッチがある。
f:id:Melonpankuma:20200114213418j:plain

意を決してしゃがんで進むと、左にさらに狭そうな道が伸びている。
f:id:Melonpankuma:20200114213506j:plain

穴を見上げると階段になっていて、その先に照明の光がみえた。
f:id:Melonpankuma:20200114213512j:plain
頭をぶつけないように、階段を上がる。

階段を上がったところが第一洞穴。
f:id:Melonpankuma:20200114213516j:plain
想像していた以上に広い。確かにこれくらいあると、人が住んでも不思議はない。

壁には駐車場近くにあった彫刻の作者萩原貞行による装飾が施されている。
f:id:Melonpankuma:20200114213728j:plain
天井からは水が滴り湿度が高い。外気と隔たっていることもあって、むっとするほど暖かかった。

装飾があるせいで、暗がりに慄くような気分はそれほど湧かない。
f:id:Melonpankuma:20200114213733j:plain

祠もある。
f:id:Melonpankuma:20200114213740j:plain


天井からの雫や地面の水たまりを避けて奥まで進むと、下にむかって道が続いていた。
f:id:Melonpankuma:20200114213524j:plain
案内板によると、この先にさらに広い第二洞穴があるそうだが、入口が崩れて入れないとのこと。

第一洞穴内にある「熊襲こそ貴族」と書かれた案内板。
f:id:Melonpankuma:20200114213520j:plain
妙見石原荘の石原貫一郎氏によって日本武尊熊襲征伐と熊襲の物語に絡めた随想が書かれている。

多湿なせいで眼鏡が曇り、汗もかいたので外気が恋しくなった。
f:id:Melonpankuma:20200114213528j:plain
洞窟から出る階段を見下ろすと、入ってきた時よりも一層狭く感じた。異空間から逃れるような気分で外に這い出た。

洞窟からの帰り道にすれ違う人がいた。やっぱり気になる人いるんだなあ。

 

妙見温泉が明治時代開湯の比較的新しい湯治場だからか『三国名勝図会』にも特に記述はない。もちろん、熊襲穴についても。

 

稲積翁住居跡の碑

熊襲穴からさほど遠くないところ、牧園町中津川地区の県道470号(犬飼霧島神宮停車場線)の道路脇に周知の史跡の標があった。
f:id:Melonpankuma:20200114213614j:plain

細い脇道は日向ぼっこをする猫が数匹。ほとんど車の通らない道らしい。
f:id:Melonpankuma:20200114213618j:plain

歩みを進めるとほとんどの猫が逃げ、一匹だけ残った。
f:id:Melonpankuma:20200114213627j:plain
お邪魔してすみません。

これ以上の接近は無理か。
f:id:Melonpankuma:20200114213621j:plain

稲積翁住居跡の碑及び石敢当案内板
f:id:Melonpankuma:20200114213630j:plain

稲積翁住居跡の碑

この土地の住人で和気清麻呂公と協力してカッパ祭の悪い習慣を禁絶し又水利を興しかんがいを便にし住民に尊敬された人の遺徳を偲ぶために立てられた。

石敢当

江戸時代に道路の行き当たりに魔除けとして立てられた石柱で交通の要路にあり南九州独特のものである。

霧島市教育委員

どうやら稲積翁住居跡の碑に隠れて石敢当があったようだ。

鹿児島神宮:日向三代を巡る旅 その5

 

山を下り霧島市の市街地にある大隅国一之宮鹿児島神宮へ向かった。鹿児島神宮は鹿児島の県名の由来ともなっている古から続く神社である。

鹿児島神宮延喜式神名帳に記される大隅国式内社5座のうちの一つであり、中世では「大隅八幡宮」「国分八幡宮」とも呼ばれていた。同じ隼人町内で鹿児島神宮から北東に位置する石體神社の場所に彦火火出見尊の宮殿(高千穂宮)があったとされ、そこが神社になったのが創始とされる。和銅元年(708年)に現在の地に遷座した。鹿児島神宮の北西に彦火火出見尊の御陵高屋山上陵がある。

江戸時代後期に薩摩藩によって編纂された『三国名勝図会』の31巻に「鹿児島神社 石體宮 弥勒院」として描かれている。鹿児島神宮別当寺だった弥勒院は失われたものの、一の鳥居から続く参道や社殿の多くは現在もそのままである。

f:id:Melonpankuma:20200113205714j:plain

f:id:Melonpankuma:20200113205718j:plain

f:id:Melonpankuma:20200113205724j:plain

平安時代には大分県にある宇佐神社と八幡宮本宮を争った。八幡神大隅顕現説である。

鎌倉時代中期成立の『宮寺縁事抄』の『八幡御因位縁記』に八幡神顕現伝承が記される。要約すると、震旦国の陳大王の娘大比留女が七歳にして夫なく妊った。父母が怪しみ問うと「夢に朝日胸を光らして覆ひ娠れり」と答えたので、驚いて誕生の王子もろとも空船に乗せて流したところ、大隅の八幡崎に漂着した。これを祀る宮である故に大隅八幡宮と主張する。

平安時代末期には大隅八幡宮を八幡宇佐宮から岩清水八幡宮に繋がる系譜の起源として、次第に影響力を持つようになる。12世紀前半の成立とされる『今昔物語集』巻12「於石清水行放生会語 第十」には、「今昔、八幡大菩薩、前生に此の国の帝王と御しける時、夷???軍を引将て、自ら出立せ給けるに、多の人の命を殺させ給ひける。???初、大隅の国に八幡大菩薩と現はれ在して、次には宇佐の宮に遷らせ給ひ、遂に此の石清水に跡を垂れ在まして…」と記される。

 

大鳥居

島木だけが白い朱塗りの両部鳥居。
f:id:Melonpankuma:20200113210717j:plain
霧島神宮に引き続き、この鳥居の雨覆も瓦葺きである。鹿児島の鳥居は雨覆に瓦を使うのが特徴らしい。

参道に続く道路の両脇に大きな石灯籠があった。
f:id:Melonpankuma:20200113210721j:plain
石灯籠の右が弥勒院の跡地で、現在は宮内小学校がある。

三之社

f:id:Melonpankuma:20200113210741j:plain
境内社三之杜では豊姫命と磯良命、武甕槌命と經津主命、火闌降命と大隅命をそれぞれ祀っている。

続きを読む

霧島神宮:日向三代を巡る旅 その4

霧島神宮延喜式にある「日向国諸県郡 霧嶋神社」の論社で、創建は記紀成立以前の6世紀にまで遡れるらしい。霧島の地は山岳信仰を元にした修験道が古くから盛んで密教文化が濃く、六つの権現社があった。

元は高千穂峰と御鉢火山の間をつなぐ背門丘に「高千穂神社」としてあったが噴火で焼失。その後、平安時代天台宗の僧性空聖人によって麓(高千穂河原の古宮址)に再建されたのが再び焼失。後250年ほど仮宮で祭られ、室町時代(15世紀)に入って現在の霧島町田口の地に再建されたという。

江戸末期に薩摩藩が編纂した『三国名勝図会』の34巻には霧島神宮が「西御在所霧島権現社」と記されている。画面左に「華林寺」とある。霧島神宮は仮宮から現在の地に移る時、それを主導した真言宗の兼慶上人によって真言宗となり、神社は「西御在所霧島権現」、寺院は「霧島山錫丈院華林寺」となった。
f:id:Melonpankuma:20200113195522j:plain

当時の境内に多宝塔、鐘楼がある。当時は霧島権現に本地六観音六体、華林寺本堂に十一面観音一体を安置し奉っていた。

f:id:Melonpankuma:20200113195526j:plain
明治時代、薩摩藩による廃仏毀釈が徹底して実施され、華林寺は廃寺となった。

 

  • 大鳥居
  • 霧島神宮案内板
  •  神橋
  • 二の鳥居
  • 神聖降臨之詩碑
  •  社務所
  • 三の鳥居
  • 御神木
  • 手水舎
  • 門守神社
  • 勅使殿
  • 登廊下
  • 本殿・拝殿
  • 楽殿

 

高千穂河原を下り、現在の霧島神宮へ車を走らせる。国道223と国分霧島線との交差点(霧島神宮前)に大きな鳥居が見える。

大鳥居

朱塗りの明神鳥居で島木の中央に社紋十六菊紋、笠木の上に雨覆屋根がある。御代替わりを機に昨年塗り直されたばかりで青空に映えていた。元は黒塗りであった。
f:id:Melonpankuma:20200112195442j:plain
鳥居の両脇には大きな切妻屋根の石灯籠。右奥に高千穂峰が見える。

ロータリーがある門前町を経て参道に向かう。
f:id:Melonpankuma:20200113173408j:plain

霧島神宮案内板

f:id:Melonpankuma:20200112225611j:plain

霧島神宮 鹿児島県姶良郡霧島町田口鎮座

御祭神は天孫瓊瓊杵尊にましまし明治七年二月神宮號宣下と共に官幣大社に列せらる欽明天皇の御宇(西暦五〇〇年代)高千穂峯の嶺近くに創祀せられその後噴火のため幾変遷を経て当地に鎮座ましましたるは後土御門天皇の御宇(西暦一四八四年)にして現社殿を造営したるは中御門天皇の御宇(一七一五年)なり
御祭神は天祖の神勅を奉じてこの霊峰に御降臨遊され鹿児島県内各地に御聖蹟を遺し給ひ崩御の後鹿児島県川内市なる可愛山陵に斂め奉る

平成四年九月吉日之記

 神橋

霧島川の支流を渡る。
f:id:Melonpankuma:20200112225614j:plain

続きを読む

高千穂河原:日向三代を巡る旅 その3

高千穂河原には有料駐車場があり、乗用車500円を払って利用する。

車を下りて高千穂峰を眺める。なるほど、この景色が「日向の襲の高千穂くじひ二上峰」かと合点する。
f:id:Melonpankuma:20200112195407j:plain

東西に長い高千穂峰を真横から見ている。つまり二つの山のように見えているのは御鉢火山の端である。
f:id:Melonpankuma:20200112212333j:plain

登山道の入り口に火山灰をかぶった神明鳥居がある。
f:id:Melonpankuma:20200112212900j:plain

霧島神宮天孫降臨神籬斎場の案内板
f:id:Melonpankuma:20200112195938j:plain

古宮址天孫降臨神籬斎場
日本で最も古い書物である古事記日本書紀霧島神宮 の御祭神瓊瓊杵尊 が「襲の高千穂 の峯に天降ります」と記してあるように、高千穂峰は神様の宿る山として古へより、多くの人々の崇敬を
集めて来ました。
ここ高千穂河原は文暦元年(一二三四年)まで霧島神宮のあった処です。
霧島山の大噴火により社殿を田ロにお移ししておりますが、高千穂河原は神籬斎場として現在も祭祀が継続されており、特に十一月十日には天孫降臨御神火祭が峰の頂上と斎場で斎行されております。

この鳥居より五百米先です どうぞご参拝下さい
国立公園 内ですので環境美化と動植物保護に御協力願います
    霧島神宮

高千穂峰への登山道であり、古は霧島神宮の参道であった道を進む。
f:id:Melonpankuma:20200112200007j:plain
拳ほどの火山石がたくさん落ちていて、歩きにくい。

参道の先に大きな階段があり、その上は玉垣で囲われている。
f:id:Melonpankuma:20200112200010j:plain

高千穂峰を背景に神明鳥居がある。
f:id:Melonpankuma:20200112223128j:plain

脇に霧島神宮の歴史を伝える案内板があった。これはわかりやすい。
f:id:Melonpankuma:20200112221858j:plain
霧島神宮の元宮は、かつて御鉢火山と高千穂峰をつなぐ幅3mほどしかない登山道背門丘(せとお)の途中にあった。788年の噴火で焼失したが、今も鳥居が建てられている。そして、今回訪れたのが霧島神宮古宮址。2代目の霧島神宮の社殿が建てられたが、1235年の噴火で再び焼失した。

社殿跡には岩座として若い松が祀られている。
f:id:Melonpankuma:20200112200013j:plain
手前には賽銭箱が置かれ参拝所になっていた。

岩座の南にある八角形は、御神火祭で大きな火を燃やす場所。
f:id:Melonpankuma:20200112200016j:plain
御神火祭は、霧島神宮の御祭神瓊々杵命の降臨を火を焚いて迎える祭りである。

 

駐車場に戻り、高千穂河原ビジターセンターの二階に上がって高千穂峰を眺める。
f:id:Melonpankuma:20200112200039j:plain
二つの山が作る窪みの中央にほんの少し高千穂峰の山頂が顔をのぞかせている。

高千穂峰山頂には霧島東神社の御神宝、天逆鉾が突き立てられている。
f:id:Melonpankuma:20200112200042j:plain

壁に貼ってある資料には、天気がよいと天の逆鉾が見えるとか。
f:id:Melonpankuma:20200112202316j:plain

単眼鏡で覗くと、逆鉾が差してある土台や旗が見えたが、それ以上はわからなかった。
f:id:Melonpankuma:20200112202325j:plain
10倍の単眼鏡も持ってくるんだったな。

高屋山上陵:日向三代を巡る旅 その2

年末の羽田空港は大混雑。とても荷物を預ける気にはなれません。
f:id:Melonpankuma:20200112164606j:plain
余裕を持って空港に着いても、出発時間が近づいて最終的に優先レーンで案内されました。

 

定刻よりやや遅れて宮崎に到着。霧島に向かって出発する前に腹ごしらえ。山椒茶屋でえび天うどんと高菜飯。無料でサラダバーがついてきます。
f:id:Melonpankuma:20200112164615j:plain
宮崎市から宮崎自動車道を通り、都城ICを下りて県道108をひた走る。

都城市通過中、天孫降臨伝承地の高千穂峰が見えた。
f:id:Melonpankuma:20200112164628j:plain
大きく裾野を広げる雄大な姿は神奈備にふさわしい。

途中から都城隼人線は県道2号に変わり、霧島市で国道504に入った。そして、鹿児島空港を通り過ぎる。
f:id:Melonpankuma:20200112164631j:plain
鹿児島空港到着だったら2時間以上稼げたのになあ。変更できないチケットを三ヶ月前に取ったので、しょうがない。うどん食べられたし。

続きを読む