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高屋山上陵:日向三代を巡る旅 その2

年末の羽田空港は大混雑。とても荷物を預ける気にはなれません。
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余裕を持って空港に着いても、出発時間が近づいて最終的に優先レーンで案内されました。

 

定刻よりやや遅れて宮崎に到着。霧島に向かって出発する前に腹ごしらえ。山椒茶屋でえび天うどんと高菜飯。無料でサラダバーがついてきます。
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宮崎市から宮崎自動車道を通り、都城ICを下りて県道108をひた走る。

都城市通過中、天孫降臨伝承地の高千穂峰が見えた。
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大きく裾野を広げる雄大な姿は神奈備にふさわしい。

途中から都城隼人線は県道2号に変わり、霧島市で国道504に入った。そして、鹿児島空港を通り過ぎる。
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鹿児島空港到着だったら2時間以上稼げたのになあ。変更できないチケットを三ヶ月前に取ったので、しょうがない。うどん食べられたし。

目的地、高屋山上陵に到着。

 

高屋山上陵は『古事記』に「御陵者即在其高千穂山之西也」、『日本書紀』に「葬高屋山上陵」、『延喜式諸陵寮』に「日向高屋山上陵。彦火火出見尊陵。在日向国。無陵戸」とある。

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高屋山上陵は、古くは大隅半島にある現肝付町国見岳山頂を定説としていた。江戸時代後期の安政元年(1854年)、津久井清影著の陵墓集『陵墓一隅抄』の付図『聖蹟図誌』に「国見嶽巓上陵之図」として描かれている。
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さらに麓にあった高屋大明神についても「大隅国肝属郡内之浦郷北方村之内日子穂穂出見命之高屋山上之陵国見嶽并廟高屋大明神及景行天皇行宮之蹟天子山之図」として描かれている。
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明治5年6月23日に明治天皇が神代三陵を遙拝した際には、高屋山上陵として国見岳に金幣を共進している。

しかし、国見岳は高千穂から南にあり、『古事記』に記される方角と合っていない。

明治4年に田中頼庸が『高屋山陵考』を著し、現霧島市溝辺の地の陵が彦火火出見尊の陵であると主張した。『古事記』の「高千穂山の西」という記述に基づいて「高千穂山」を高千穂峰とみなし、高千穂峰の西に「鷹大明神社」があったことから、「鷹」を「高屋」の「タカ」と結びつけたものと考えられている

江戸時代後期に薩摩藩によって編纂された『三国名勝図会』の31巻にある「鷹大明神社」の項目には「鷹大明神社 地頭館の辰方、二十九町餘 溝邊町にあり、祭神分明ならず、神体深秘の旨ありとて、古来親く覴ふことを得ず、例祭二月初酉日十一月中酉日社傅に應永十八年、勧請すと云、寶徳三年六月社殿造立の棟札存ず、當郷の宗廟なり、社司宗像氏」と書かれている。


最終的には、明治7年(1874年)明治政府によって溝辺の陵陵が高屋山上陵と定められて整備された。
神代三代御陵の伝承地は九州各地に点在する。日向国にもある様々な御稜の候補地がひとつも採用されなかったのは、政府内の薩摩国の勢いによるところが大きそうだ。

 西参道を歩くと、杉の木の間から桜島が見えた。
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見晴らしのよい土地だから御陵地に選ばれたのだろうかと想像する。

簡単な門があり、その先に小さな社務所がある。
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高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ)は、日向三代の第二代目で山幸彦の名で知られる天津日高彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと、火折尊 ほおりのみこと)の墓である。浦島太郎の話の元になった海幸山幸の話でよく知られ、霧島市鹿児島神宮に祀られている。
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円墳は石垣とフェンスに囲われている。参拝所には植え込みみ切れ間に玉垣があり、その内側にある階段の上に石製の神明鳥居と瑞垣が設けられている。

宮内庁による注意書き
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古墳を見上げて木々の間になにか見えないかと単眼鏡で探す。
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いくつか石と木立の他には何も見えなかった。

 

参拝所を振り返ると社務所の先に小さな丘があり、階段があって登れるようになっていた。ここも円墳のように思えた。

高屋山上陵の案内板
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天津日高彦火火出見尊(妃豊玉姫命
   高屋山上陵

古事記によれば尊の御陵は日向の高千穂山の西に在ると記され日本書紀には高屋の山に葬るとある。尊は伝承に名高い山幸彦でもあり、記紀に記されているように皇室のご先祖として、初めて日向の国(現在の宮崎大隅薩摩地方)を統治された神代三代の第二代目で人皇第一代神武天皇の御祖父に当たられる。なお皇霊は霧島市隼人町にある鹿児島神宮に祀られている。また尊の御父君は瓊瓊杵尊と申され川内市の可愛山陵に葬られ皇霊は霧島神宮に祀られている。尊の御子鵜草葺不合尊(神武天皇の父君)は鹿屋市吾平町に所在する吾平山陵に葬られ、皇霊は宮崎県の鵜戸神宮に祀られている。ここ高屋山上陵の内面積は五万三千米ほどで御陵の形は円墳で御拝所の正面上六十米の所に尊の陵(御墓)が築かれている。なお明治五年明治天皇は弊物を届けさせられて、御遥拝になり今日まで天皇皇族の御参拝か相次いでなされている。なお御陵の御静安は宮内庁により管理されている。

   霧島市

東宮殿下御参拝記念の碑
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大正9年(1920)、昭和天皇が皇太子時代に参拝された記念に作られたもの。

すぐ側には昭和天皇御手植の銀杏。
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皇太子殿下美智子妃殿下御参陵記念の碑
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昭和37年(1962)、上皇陛下が皇太子時代に参拝された記念に作られたもの。

 

興味がない人からすればただの山。山間の静かな御陵にも関わらず、他にも参拝者がいたので、史跡めぐりが好きな人には訪れる価値のある場所のようだ。