常温常湿希望

温度20℃湿度50%が理想です。

熊襲穴:日向三代を巡る旅 その6

熊襲の穴

国道223号沿い、明治時代に開湯した妙見温泉の中心に位置する石原荘から少し下ったところに「史跡洞窟 熊襲隼人 日本武尊」の大きな立て看板があり、その坂を上ると駐車場がある。熊襲穴までは駐車場から山道を約200m登る。
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駐車場から続く道の途中に鹿児島出身の前衛作家萩原貞行による「神々の想い」が立っている。

白木の神明鳥居をくぐる。
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途中に縄鳥居。
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冬だからよいものの、結構急な階段が続く。

一体どこまで続くんだと思ったところで、目的地らしいのが見えてきた。
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最後の階段が最も厳しい。

隼人熊襲の額がついた門が立っていた。
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 切り立った崖のしたに洞穴がある。
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入口は低く、身を屈めないと進めない。

熊襲の穴案内板
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熊襲の穴

熊襲の穴は、この地点からおよそ五メートルのところにあり、昔熊襲族が居住していた穴で、熊襲の首領、川上鳥師が女装した日本武尊に誅殺されたところで一名嬢着の穴ともいわれます。 第一洞穴は奥行22メートル、巾10メートルで百畳敷位の広さがあり、更に右正面から第二洞穴につながっておりますが、現在入口が崩れて中へ入れません。第二洞穴は、約三百畳敷位の広さといわれております。

入口の右に、洞窟内の照明のスイッチがある。
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意を決してしゃがんで進むと、左にさらに狭そうな道が伸びている。
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穴を見上げると階段になっていて、その先に照明の光がみえた。
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頭をぶつけないように、階段を上がる。

階段を上がったところが第一洞穴。
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想像していた以上に広い。確かにこれくらいあると、人が住んでも不思議はない。

壁には駐車場近くにあった彫刻の作者萩原貞行による装飾が施されている。
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天井からは水が滴り湿度が高い。外気と隔たっていることもあって、むっとするほど暖かかった。

装飾があるせいで、暗がりに慄くような気分はそれほど湧かない。
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祠もある。
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天井からの雫や地面の水たまりを避けて奥まで進むと、下にむかって道が続いていた。
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案内板によると、この先にさらに広い第二洞穴があるそうだが、入口が崩れて入れないとのこと。

第一洞穴内にある「熊襲こそ貴族」と書かれた案内板。
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妙見石原荘の石原貫一郎氏によって日本武尊熊襲征伐と熊襲の物語に絡めた随想が書かれている。

多湿なせいで眼鏡が曇り、汗もかいたので外気が恋しくなった。
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洞窟から出る階段を見下ろすと、入ってきた時よりも一層狭く感じた。異空間から逃れるような気分で外に這い出た。

洞窟からの帰り道にすれ違う人がいた。やっぱり気になる人いるんだなあ。

 

妙見温泉が明治時代開湯の比較的新しい湯治場だからか『三国名勝図会』にも特に記述はない。もちろん、熊襲穴についても。

 

稲積翁住居跡の碑

熊襲穴からさほど遠くないところ、牧園町中津川地区の県道470号(犬飼霧島神宮停車場線)の道路脇に周知の史跡の標があった。
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細い脇道は日向ぼっこをする猫が数匹。ほとんど車の通らない道らしい。
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歩みを進めるとほとんどの猫が逃げ、一匹だけ残った。
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お邪魔してすみません。

これ以上の接近は無理か。
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稲積翁住居跡の碑及び石敢当案内板
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稲積翁住居跡の碑

この土地の住人で和気清麻呂公と協力してカッパ祭の悪い習慣を禁絶し又水利を興しかんがいを便にし住民に尊敬された人の遺徳を偲ぶために立てられた。

石敢当

江戸時代に道路の行き当たりに魔除けとして立てられた石柱で交通の要路にあり南九州独特のものである。

霧島市教育委員

どうやら稲積翁住居跡の碑に隠れて石敢当があったようだ。

鹿児島神宮:日向三代を巡る旅 その5

 

山を下り霧島市の市街地にある大隅国一之宮鹿児島神宮へ向かった。鹿児島神宮は鹿児島の県名の由来ともなっている古から続く神社である。

鹿児島神宮延喜式神名帳に記される大隅国式内社5座のうちの一つであり、中世では「大隅八幡宮」「国分八幡宮」とも呼ばれていた。同じ隼人町内で鹿児島神宮から北東に位置する石體神社の場所に彦火火出見尊の宮殿(高千穂宮)があったとされ、そこが神社になったのが創始とされる。和銅元年(708年)に現在の地に遷座した。鹿児島神宮の北西に彦火火出見尊の御陵高屋山上陵がある。

江戸時代後期に薩摩藩によって編纂された『三国名勝図会』の31巻に「鹿児島神社 石體宮 弥勒院」として描かれている。鹿児島神宮別当寺だった弥勒院は失われたものの、一の鳥居から続く参道や社殿の多くは現在もそのままである。

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平安時代には大分県にある宇佐神社と八幡宮本宮を争った。八幡神大隅顕現説である。

鎌倉時代中期成立の『宮寺縁事抄』の『八幡御因位縁記』に八幡神顕現伝承が記される。要約すると、震旦国の陳大王の娘大比留女が七歳にして夫なく妊った。父母が怪しみ問うと「夢に朝日胸を光らして覆ひ娠れり」と答えたので、驚いて誕生の王子もろとも空船に乗せて流したところ、大隅の八幡崎に漂着した。これを祀る宮である故に大隅八幡宮と主張する。

平安時代末期には大隅八幡宮を八幡宇佐宮から岩清水八幡宮に繋がる系譜の起源として、次第に影響力を持つようになる。12世紀前半の成立とされる『今昔物語集』巻12「於石清水行放生会語 第十」には、「今昔、八幡大菩薩、前生に此の国の帝王と御しける時、夷???軍を引将て、自ら出立せ給けるに、多の人の命を殺させ給ひける。???初、大隅の国に八幡大菩薩と現はれ在して、次には宇佐の宮に遷らせ給ひ、遂に此の石清水に跡を垂れ在まして…」と記される。

 

大鳥居

島木だけが白い朱塗りの両部鳥居。
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霧島神宮に引き続き、この鳥居の雨覆も瓦葺きである。鹿児島の鳥居は雨覆に瓦を使うのが特徴らしい。

参道に続く道路の両脇に大きな石灯籠があった。
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石灯籠の右が弥勒院の跡地で、現在は宮内小学校がある。

三之社

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境内社三之杜では豊姫命と磯良命、武甕槌命と經津主命、火闌降命と大隅命をそれぞれ祀っている。

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霧島神宮:日向三代を巡る旅 その4

霧島神宮延喜式にある「日向国諸県郡 霧嶋神社」の論社で、創建は記紀成立以前の6世紀にまで遡れるらしい。霧島の地は山岳信仰を元にした修験道が古くから盛んで密教文化が濃く、六つの権現社があった。

元は高千穂峰と御鉢火山の間をつなぐ背門丘に「高千穂神社」としてあったが噴火で焼失。その後、平安時代天台宗の僧性空聖人によって麓(高千穂河原の古宮址)に再建されたのが再び焼失。後250年ほど仮宮で祭られ、室町時代(15世紀)に入って現在の霧島町田口の地に再建されたという。

江戸末期に薩摩藩が編纂した『三国名勝図会』の34巻には霧島神宮が「西御在所霧島権現社」と記されている。画面左に「華林寺」とある。霧島神宮は仮宮から現在の地に移る時、それを主導した真言宗の兼慶上人によって真言宗となり、神社は「西御在所霧島権現」、寺院は「霧島山錫丈院華林寺」となった。
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当時の境内に多宝塔、鐘楼がある。当時は霧島権現に本地六観音六体、華林寺本堂に十一面観音一体を安置し奉っていた。

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明治時代、薩摩藩による廃仏毀釈が徹底して実施され、華林寺は廃寺となった。

 

  • 大鳥居
  • 霧島神宮案内板
  •  神橋
  • 二の鳥居
  • 神聖降臨之詩碑
  •  社務所
  • 三の鳥居
  • 御神木
  • 手水舎
  • 門守神社
  • 勅使殿
  • 登廊下
  • 本殿・拝殿
  • 楽殿

 

高千穂河原を下り、現在の霧島神宮へ車を走らせる。国道223と国分霧島線との交差点(霧島神宮前)に大きな鳥居が見える。

大鳥居

朱塗りの明神鳥居で島木の中央に社紋十六菊紋、笠木の上に雨覆屋根がある。御代替わりを機に昨年塗り直されたばかりで青空に映えていた。元は黒塗りであった。
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鳥居の両脇には大きな切妻屋根の石灯籠。右奥に高千穂峰が見える。

ロータリーがある門前町を経て参道に向かう。
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霧島神宮案内板

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霧島神宮 鹿児島県姶良郡霧島町田口鎮座

御祭神は天孫瓊瓊杵尊にましまし明治七年二月神宮號宣下と共に官幣大社に列せらる欽明天皇の御宇(西暦五〇〇年代)高千穂峯の嶺近くに創祀せられその後噴火のため幾変遷を経て当地に鎮座ましましたるは後土御門天皇の御宇(西暦一四八四年)にして現社殿を造営したるは中御門天皇の御宇(一七一五年)なり
御祭神は天祖の神勅を奉じてこの霊峰に御降臨遊され鹿児島県内各地に御聖蹟を遺し給ひ崩御の後鹿児島県川内市なる可愛山陵に斂め奉る

平成四年九月吉日之記

 神橋

霧島川の支流を渡る。
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高千穂河原:日向三代を巡る旅 その3

高千穂河原には有料駐車場があり、乗用車500円を払って利用する。

車を下りて高千穂峰を眺める。なるほど、この景色が「日向の襲の高千穂くじひ二上峰」かと合点する。
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東西に長い高千穂峰を真横から見ている。つまり二つの山のように見えているのは御鉢火山の端である。
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登山道の入り口に火山灰をかぶった神明鳥居がある。
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霧島神宮天孫降臨神籬斎場の案内板
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古宮址天孫降臨神籬斎場
日本で最も古い書物である古事記日本書紀霧島神宮 の御祭神瓊瓊杵尊 が「襲の高千穂 の峯に天降ります」と記してあるように、高千穂峰は神様の宿る山として古へより、多くの人々の崇敬を
集めて来ました。
ここ高千穂河原は文暦元年(一二三四年)まで霧島神宮のあった処です。
霧島山の大噴火により社殿を田ロにお移ししておりますが、高千穂河原は神籬斎場として現在も祭祀が継続されており、特に十一月十日には天孫降臨御神火祭が峰の頂上と斎場で斎行されております。

この鳥居より五百米先です どうぞご参拝下さい
国立公園 内ですので環境美化と動植物保護に御協力願います
    霧島神宮

高千穂峰への登山道であり、古は霧島神宮の参道であった道を進む。
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拳ほどの火山石がたくさん落ちていて、歩きにくい。

参道の先に大きな階段があり、その上は玉垣で囲われている。
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高千穂峰を背景に神明鳥居がある。
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脇に霧島神宮の歴史を伝える案内板があった。これはわかりやすい。
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霧島神宮の元宮は、かつて御鉢火山と高千穂峰をつなぐ幅3mほどしかない登山道背門丘(せとお)の途中にあった。788年の噴火で焼失したが、今も鳥居が建てられている。そして、今回訪れたのが霧島神宮古宮址。2代目の霧島神宮の社殿が建てられたが、1235年の噴火で再び焼失した。

社殿跡には岩座として若い松が祀られている。
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手前には賽銭箱が置かれ参拝所になっていた。

岩座の南にある八角形は、御神火祭で大きな火を燃やす場所。
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御神火祭は、霧島神宮の御祭神瓊々杵命の降臨を火を焚いて迎える祭りである。

 

駐車場に戻り、高千穂河原ビジターセンターの二階に上がって高千穂峰を眺める。
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二つの山が作る窪みの中央にほんの少し高千穂峰の山頂が顔をのぞかせている。

高千穂峰山頂には霧島東神社の御神宝、天逆鉾が突き立てられている。
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壁に貼ってある資料には、天気がよいと天の逆鉾が見えるとか。
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単眼鏡で覗くと、逆鉾が差してある土台や旗が見えたが、それ以上はわからなかった。
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10倍の単眼鏡も持ってくるんだったな。

高屋山上陵:日向三代を巡る旅 その2

年末の羽田空港は大混雑。とても荷物を預ける気にはなれません。
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余裕を持って空港に着いても、出発時間が近づいて最終的に優先レーンで案内されました。

 

定刻よりやや遅れて宮崎に到着。霧島に向かって出発する前に腹ごしらえ。山椒茶屋でえび天うどんと高菜飯。無料でサラダバーがついてきます。
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宮崎市から宮崎自動車道を通り、都城ICを下りて県道108をひた走る。

都城市通過中、天孫降臨伝承地の高千穂峰が見えた。
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大きく裾野を広げる雄大な姿は神奈備にふさわしい。

途中から都城隼人線は県道2号に変わり、霧島市で国道504に入った。そして、鹿児島空港を通り過ぎる。
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鹿児島空港到着だったら2時間以上稼げたのになあ。変更できないチケットを三ヶ月前に取ったので、しょうがない。うどん食べられたし。

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天孫降臨伝承地:日向三代を巡る旅 その1

今月15日から東京国立博物館で開催される「出雲と大和」展の予習として、昨年は記紀をテーマに鹿島・香取、伊勢、出雲に出かけ、年末に日向三代を巡る旅に出かけた。

 

旅行プランを練る上で、日向三代の話、いわゆる日向神話をテーマにすると絶対にぶつかる壁「果たして天孫降臨の地はどこなのか」をまず解決しないといけなくなった。つまるところ、有力視される二ヶ所、西臼杵高千穂町霧島連峰高千穂峰の両方を回るだけの時間的余裕がないのである。そこで、どちらがより私の興味を掻き立てるか検討することになった。

前もって書いておく。もちろん、記紀に書いてあることが史実であるとは私も思っていない。しかし、記紀制作時に想定した場所があったことは間違いなく、それがどこなのかを調べるという話。

天孫降臨伝承地に日向を陽当たりのよい土地と解釈した筑紫説などもあるのは承知しているが、今回それは横に置いておく。なぜなら、宮崎空港行きの飛行機のチケットを取ってしまっているので。

 

天孫降臨

天孫ニニギノミコトが、アマテラスの神勅を受けて葦原の中つ国を治めるために、高天原から「筑紫の日向の高千穂」へ天降ったこと。

古事記では「筑紫の日向の高千穂のくじふるたけ」と記され、日本書紀では「日向の襲の高千穂の峰」「日向の高千穂くじふるの峰」「日向のくじひの高千穂の峰」「日向の襲の高千穂くじひ二上峰」「日向の襲の高千穂そほりの山峰」と複数箇所で書かれている。

筑紫と日向

「筑紫」は古くは九州全域を示す。『古事記』の国産みでは筑紫島は大きく筑紫、豊国、肥国、熊曽国の4つの国に分けられている。

次生、筑紫島。此島亦、身一而、有面四。面毎有名。故、筑紫国謂、白日別。豊国、言、豊日別。肥国、言、建日向日豊久士比泥別。熊曾国、言、建日別。

 

次に筑紫島を生んだ。この島もまた、身体は一つだが顔が四つあり、それぞれの顔に名前がある。すなわち、筑紫国を白日別(しらひわけ)といい、豊国を豊日別(とよひわけ)といい、肥国(ひのくに)を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)といい、熊曾国を建日別(たけひわけ)という。

 

日向国」は7世紀中期以降に、現在の宮崎県と鹿児島県に当たる南九州の広域を含んで成立し、702年に薩摩国が分立、713年に大隅国が分立した。
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ちょうど記紀成立時期に日向国が縮小したことが、高千穂論争を複雑にしている。

 

高千穂論争

日本神話を研究する「国学」が盛んだった江戸時代、天孫降臨の地をめぐり「臼杵高千穂説」「霧島高千穂説」という二つの説で論争が行われた。本居宣長は『古事記伝』でどちらとも決めがたいと、最初臼杵郡の高千穂の山に降り、その後に霧島に向かったと折衷案で締めている。ずるい。

しかし、それも致し方ない。遡ると鎌倉時代にはどちらが天孫降臨伝承地なのかはわからなくなっている。当時既に根拠となる文献が残っていないので、江戸時代の本居宣長をもってしても論争に進展があるはずもなく、まして現代では想像で語る以上のものができるわけがない。

そんなわけで、現代では臼杵高千穂、霧島高千穂の両方が天孫降臨の地として観光アピールをしている。

 

臼杵高千穂

13世紀鎌倉時代に書かれた『釈日本紀』に『日向国風土記』の逸文が記されている。

日向國風土記臼杵郡内知鋪郷天津彦火瓊瓊杵尊天降於日向之高千穗二上峯時天暗冥晝夜不別人物共遍物也難別於兹有土蜘蛛名曰大鉗小鉗二人奏言皇孫尊以御手拔稻千穗爲籾投散四方必得開晴于時如大鉗等所奏搓千穗稲爲籾投散即天開晴日月照光因曰高千穗二上峯後人改號知鋪

 

日向の風土記に曰く、臼杵の郡のうち知鋪の郷、アマツヒコヒコホノニニギノミコト、天の磐座を離れ日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。時に空暗く昼夜別かず、人、道を失い、物分けがたかりなり。ここに土蜘蛛あり。名をオオクワ、オクワと言う二人ありてもうしけらく。「皇孫の尊、御手をもちて、稲千穂を抜き籾となし、四方に投げ散らしたまはば、必ず明かりなむ」と申しき。時にオオクワらの申ししが如く、千穂の稲を手もみて籾となし投げ散らしたまいければ、即ち、天開いて晴れわたり日月が照り輝きき。よりて、高千穂の二上の峰と言いき。後の人、改めて、智鋪と名づく。

国文学研究資料館データベースより

日向国風土記』は713年に官命が出て編まれたもの、つまり、『日本書紀』とほぼ同時期に作られたものである。臼杵高千穂論を支持する多くが、これを大きな論拠としている。

 

個人的な感想として、この話はあまりにも出来すぎていて、古事記なり日本書紀を参考にして天孫降臨にからめて話を作ったのではないかと疑っている。だいたい何故に智鋪なのか。稲穂を撒いたのならそのまま千穂でよいではないか。
一旦疑い出すと疑惑は広がる。わざわざ智鋪を担ぎ上げるメリットがあるのか。ここで、日向国風土記大隅国が分立した後に書かれたものであることを思い出したい。霧島高千穂は日向国に属するが、霧島高千穂説に関わる古い神社はそのほとんどが大隅国になってしまったのを、風土記を編纂した日向国国司らはどう思ったであろうか。

 

宮崎県北端、西臼杵郡高千穂町は神話の里として大々的な観光地になっている。私は2013年に高千穂神社天岩戸神社等々の観光コースを一通り回っている。
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その時は、こんな不便そうな土地によくも降りようと思ったなというのが私の第一印象だったし、天の国高天原にあるはずの天岩戸や天安河原が重要な観光スポットになっているのに鼻白んだのを思い出す。きっと天孫降臨よりも賑々しい天岩戸の方が受けがよいのだろう。つまりは、記紀を都合よく解釈して後付で土地に結びつけようという意思が節々に見え、伝承の信憑性に欠けると感じたのである。そのため、途中からはそういうことは一切考えずに、その土地の人が示したい物語を楽しむことに徹した。

以上の経緯に加えて、臼杵高千穂地域には延喜式神名帳(成立927年)に記された神社が一切ないという事実がある。延喜式成立前に失われたなり端からなかったなり解釈はいくらでもできる。もちろん、延喜式内社でなくとも地域で大きく祀られている神社は多くあるので一概に古くから続く神社がないという意味ではないものの、古の痕跡を求めて旅を楽しみたい側からすると魅力に欠ける。

霧島高千穂

霧島連山は日向と薩摩の境にあり、古くから山岳信仰(霧島六所権現)がある土地で、霧島連山を中心に延喜式神名帳に記されている古い神社も多く残っている。
都城盆地から見ると、高千穂峰は山頂から両翼を広げた形が実に雄大であり、多くの山々の中でもひときわ目立つ。高千穂峰は古代から続く神奈備信仰の舞台であり、山頂近くに霧島神宮跡地として鳥居が立てられている。
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その北西に近年爆発を繰り返している新燃岳、さらに霧島山の最高峰韓国岳がある。

 霧島高千穂説を支持する論者は、『日本書紀』に「日向の襲の高千穂の峰」「日向の襲の高千穂くじひ二上峰」「日向の襲の高千穂そほりの山峰」と出てくる「襲」に注目している。同書には景行天皇熊襲征伐のために日向に仮宮の高屋宮を建て「襲国」に赴く記述がある。熊襲の国という意味で使われているのが明らかとして、これを後の大隈国曽於郡の地名に関連付けている。
その他、『懐風藻』序文の「襲山」や、『薩摩国風土記逸文など臼杵高千穂峰説よりも信憑性ある論拠が多いように思う。

 

旅行コース

そういった訳で今回の旅では「臼杵高千穂」地域を除外し、主に「霧島高千穂」説を中心に日程を組むことにした。

邇邇藝命の天孫降臨から神武天皇に続く三代をそれぞれ主祭神として祀る神社と陵墓を中心に三代にまつわる逸話が残る地を回り、最終日に余裕があれば宮崎市内の神社も回る。時間と天気次第では姶良山陵を諦めることになるが、それはそれで仕方がない。

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実際にプランを立ててみたら、三泊四日では回るには思いの外広かった。

明治神宮

都心の緑がすっかり色づいた頃、明治神宮ミュージアムが開館したとのことで明治神宮に行きました。

www.meijijingu.or.jp

一部、10月の紅葉前に行った時の写真を混ぜて紹介します。

 

  • 表参道
  • 神宮橋
  • 一の鳥居
  • 南参道
  • 神橋
  • 奉献酒樽
  • 奉献ワイン樽
  • 立灯籠
  • 大鳥居(二の鳥居)
  • 明治神宮御苑
  • 祓所
  • 手水舎
  • 玉垣鳥居(三の鳥居)
  • 客殿
  • 南神門
  • 回廊
  • 拝殿
  • 長殿
  • 楽殿
  • 車祓所
  • 明治神宮ミュージアム

表参道

都市化が進んで忘れがちですが、元々は明治神宮の参道です。
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表参道交差点にある巨大な石灯籠は昭和11年造で伊東忠太氏が設計したもの。基礎も相当大きいが、均整が取れているため遠くから見ると高さを感じさせない。春日型灯篭で、火袋は格子になっている。宝珠が乗る角笠は膨らみがなく、竿も直線性が生きている。

参道に向かって左側(みずほ銀行がある側)の石灯籠は台座の一部が欠けている。太平洋戦争末期の大空襲の焼夷弾が残したものだという。火災旋風に巻き込まれ、ここで多くの人が折り重なって亡くなった。石灯籠の裏に「和をのぞむ」と刻まれた追悼碑がある。

神宮橋

表参道の終点、山手線をまたいで神宮橋がある。
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高さ4.7m、石灯籠形の親柱。
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こんなものを設計するのはひとりしか思い浮かびません。当然、伊東忠太設計です。

神宮橋は1964年の東京オリンピック開催に向けて架け替えられたが、初代の外観を残し石材を磨き直して再利用した。

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