百段雛まつり~近江・美濃・飛騨 ひな紀行~@目黒雅叙園百段階段
桃の節句が近くなると、毎年百段階段では各地の雛段の展示があります。少し早いのですが、雛まつり気分を味わいに、百段雛まつり~近江・美濃・飛騨 ひな紀行~展(キャッシュ)に行ってました。
毎年異なった地域から歴史あるお雛さまの名品が集う「百段雛まつり」。 今年は「近江・美濃・飛騨」をテーマに、 大名家の姫君の婚礼調度や近江商人として栄えた旧家に伝わる逸品、 圧巻の御殿飾りから指先ほどの小さな郷土玩具まで、 岐阜と滋賀の町々に息づく百花繚乱のお雛さまたちが文化財「百段階段」に初お目見えです。
受付から螺鈿のエレベーターで3階へ。
《原孝洲のお雛さま》
創業明治44年、東京・浅草橋で無形文化財の技術を継承する人形作家の老舗「原孝洲」のお雛さまです。仏像の表情に通じる赤ちゃんの清らかな気品のある表情に、愛らしさを融合させた丸いお顔と、何十本もの線が作り出す「笹目技法」のやさしいまなざしが特徴です。
その隣にはフォトコーナーがありました。
撮影に使える扇子やフキダシの小物が用意されていました。
この後、靴を脱いで百段階段へ。今回の展示は、撮影エリアが制限されています。
十畝の間 近江商人のお雛様
入ってすぐ、青の表着を纏った現代のお雛さまが目を惹きます。東之湖氏制作、近江上布を使った「清湖雛」 です。
部屋の奥に、近江日野商人正野玄三家の御殿飾り。武田菱つきの道具類は当時の藩主蒲生氏から拝領したと伝わる。
そして、近江八幡、彦根藩主・井伊家伝来の古今雛の展示。
漁樵の間 飛騨高山の雛まつりⅠ
ここには、土人形雛、土野家のお雛さま、女の五人囃子の展示を挟んで、部屋の奥に飛騨高山の老舗旅館である本陣平野屋花兆庵の雛かざりがあった。
土野家に伝わるお雛さまは、江戸時代の1857(安政4)年に京都で作成されたもので、京都高辻室町西の 柏屋甚兵衛から買い求めたとの記録が残っています。当初は江戸時代の高山の商家のもので、後に 土野家に伝わりました。
本陣平野屋花兆庵の雛かざりは、源氏枠御殿飾り。館の中に雛人形を飾るのを御殿飾りというが、人形が見えやすいように御殿の屋根を取り払い、源氏物語絵巻などでみられる吹抜屋台形式のようにしたものを源氏枠御殿飾りという。お道具類が見事だったのと、闘鳥人形が印象に残った。
草丘の間 井戸家のお雛さま
入り口右手に静岡の御殿飾り。豪華な屋根には鯱がついています。御殿の中に雛人形を飾る「御殿飾り」は西の雛文化として発展したそうです。お内裏様は建物に隠れてあまりよく見えず、こうなると造りの中心は人形より建物かと。
その隣が井戸家のお雛さまで、板葺御殿飾りの雛壇。狆引き官女がいる。そして古今雛、さらに、小さく精微に作られた白木のお道具の展示もありました。
静水の間 井伊家 砂千代姫のお雛さまと雛道具
長浜市長浜城歴史博物館所蔵、彦根藩主、井伊家・砂千代姫の雛かざりの展示。
滋賀県長浜市の古刹、大通寺は真宗大谷派(東本願寺)の別院として知られています。 彦根藩主・井伊家と大通寺は、江戸時代を通じて深い関係を維持してきました。 両者は寺領や建造物の寄進だけでなく、井伊家の息女や息男を迎えることも多くありました。 砂千代姫は13代井伊直弼の七女で、1859(安政5)年に大通寺の養女となり、1872(明治5)年に十世霊寿院厳澄の内室となりました。
大型の豪奢な古今雛で、女雛の白い打衣が幸菱紋。唐草牡丹紋が配された雛道具が見事でした。童子形の五人囃子も愛らしい顔立ちでした。こちらは本展覧会のメインビジュアルに使われていますが、女雛の冠が外されていたのが残念でした。
衣裳人形も二組ありました。
星光の間 神戸玩具と土のお雛さま
◆大集合、郷土玩具と土雛の世界ー[日本土鈴館]
岐阜県郡上市、白鳥町に位置する日本土鈴館は、日本全国の土鈴や土雛をはじめ、世界各国の郷土玩具のコレクションでも知られる博物館です。
野田家は明治15, 6年頃から土人形作りに携わり、戦後も末吉氏が制作を続けてきましたが、平成元年、 野田末吉氏の死去とともに名古屋土人形は廃絶しました。 末吉氏は、様々な種類、意匠の土人形と土鈴を創り出しました。本展では、末吉氏の80cm近い大きな 人形から、指先ほどの小さな土鈴をはじめ、郷土の土雛と郷土玩具の世界をご紹介します。
色合いも鮮やかな土のお雛さまが勢揃い。ガラスに入った和鞠もありました。
清方の間 飛騨高山の雛まつりⅡ
土野家のお雛さまと岐阜日下部家伝来の檜皮葺御殿造りの雛かざりの展示。江戸時代の1857(安政4)年に京都で作成されたもので、京都高辻室町西の 柏屋甚兵衛から買い求めたとの記録が残っている。古今雛の壇飾りに、葵祭りの行列や闘鶏人形などが並ぶ。
中川政七商店の郷土玩具ルーム
階段を上がりきったところにある小部屋には、奈良の中川政七商店と海洋堂よる、日本各地の郷土玩具をモチーフのガチャ日本全国まめ郷土玩具蒐集が漆の雛壇に並べてありました。
頂上の間 美濃のお雛さまと美濃和紙のあかり 日本大正村のお雛さま
◆“うだつの上がる町”の旧和紙問屋に伝わる御殿飾り - 美濃
旧須田万右衛門家の源氏枠御殿
美濃の旧和紙問屋、須田万右衛門家に伝わる御殿飾りです。 寛永年間より続く須田家は元々紙問屋を営んでいましたが、その後金鉱山の試掘や銀行を興すなど、様々な方面で活躍しました。
《土人形の型》
《ハイカラびな》
「ハイカラびな」は、明治・大正の流行のモデルを追った土人形です。土雛は内裏雛や歴史的なテーマでの 生産のものがほとんどでしたが、その時代の同時代のものも作られていました。 明治の中頃から先の大戦後まで生産は続き、陶器や磁器の人形に発展していきました。
この写真を受付で提示すると、割引が受けられます。どうぞご利用ください。
宮廷の雅 十二単着つけ実演@東京国立博物館 平成館
一ヶ月ぶりに東博へ。トーハクイベントとして十二単着つけ実演が、平成館の講堂で行われました。
まず、東博研究員の小山氏による本館8室に展示されている女房装束と束帯について、衣装構成と有職模様の解説、次いでハクビ京都きもの学院総院長の大塚純子氏による解説付きで十二単着つけの実演がありました。
宮廷装束の着付け(お服上げ)、つまり衣紋道には、高倉流と山科流の二つの流派があり、御盛儀の多くで交互に御奉仕しているそうです。
実演は白小袖、濃長袴姿のモデルが登場し、壇上で単、五衣、打衣、表着、唐衣、裳を着装しました。
今回実演に使われた襲(かさね)の色目は花橘と呼ばれる組み合わせで、雅子様が御結婚の儀に使われたものでした。
山吹濃き薄き二。白き一。青き濃き薄き。白単。青単。
『満佐須計装束抄』
着つけ実演後、宮廷装束を身に着けたモデル&東博研究員で学芸企画部部長の富田氏が登場しました。左から、直衣、冠直衣(富田氏)、文官束帯、十二単、細長、袿です。
実演を見た後、本館で復習。
本館 8室 暮らしの調度―安土桃山・江戸
《束帯 1具 江戸時代・19世紀》
イベント時の解説によると、肌に白小袖と大口(袴)を着、その上に表袴、冠、襪(しとうづ:靴下)を着用。その上に広袖の四菱模様の単、さらに、小葵文の衵(あこめ:袷仕立て)、蟹霰文の表袴、臥蝶の丸模様の裾のついた下襲、雲鶴文の袍(ほう)、石帯、靴を着けるとのこと。
黒い袍には、雲鶴文が入っています。
後ろに回って裾を覗き見。
臥蝶の丸模様が入っています。
靴も牡丹と蝶の模様が入って、華やかです。
イベント時の解説によると、肌に白小袖、長袴を着ける。その上に、幸菱模様の単、五衣、打衣、表着、亀甲紋に対蝶模様の唐衣、鳳凰桐竹の模様が入った掛帯の裳を着けるとのこと。
右袖の部分を拡大しました。緑の幸菱模様の単、藍鼠色の五衣、赤いの亀甲紋に対蝶模様の唐衣。
幸菱を拡大。菱形の先の部分(頂点)を小さな菱で合わせていることから先合い菱、それが訛って幸菱と呼ばれるようになったそうです。
鳳凰桐竹の模様の裳。
裳についている帯は織田家瓜に霰文でした。
イベント後にかなり遅いお昼ご飯として、平成館ラウンジの鶴屋吉信で、京都たん熊北店の「京のいなりと雅巻セット」を購入。
お腹ペコペコだったので、生き返りました。
江戸東京たてもの園
江戸東京たてもの園に行きました。
SNSで見かけて前々から気になっていましたが、我が家からは気軽に行ける距離ではなく、行く機会に恵まれませんでした。しかし、たまたま用事ができたので、これはチャンスとばかりに短い時間ではありましたが寄り道してきました。
入り口となるビジターセンターは、銅版葺きで穏やかな軒反りのある和風建築物です。
1940年(昭和15)に皇居前広場で行われた紀元2600年記念式典のために仮設された式殿を移設したものだとか(今年は皇紀2678年なんですね)。
《午砲》
午砲
1871年(明治4)9月9日から、皇居内旧本丸で、この大砲により正午を知らせる空砲が発射された。〈午砲〉による正午の通報は、今の東京都区部の大部分に聞こえ、その音から〈ドン〉と呼ばれて人々に親しまれた。江戸時代には、江戸市中に時刻を知らせるため〈時の鐘〉を鳴らしたが、明治時代からこの午砲となり、1929年(昭和4)5月1日にサイレンにかわり、1938年(昭和13)9月まで続いた。
年代:明治時代
旧所在地:千代田区(皇居内本丸跡)
《ボンネットバス》
レトロな佇まいで、てっきり昭和初期あたりの印象を受けましたが、ボディが1968年製、シャーシが1979年製で、そんなでもありませんでした。
《三井八郎右衛門邸》
日本の近代史に三井財閥として名を残した三井同族十一家の惣領家(北家)、三井八郎右衛門高公氏の第二次世界大戦後の住宅である。今井町(現、港区)にあった邸宅が戦災で焼けたため、財閥解体を経た1952年(昭和27)に麻布笄町(現、港区西麻布)に本邸を建築して、移り住んだ。
庭から見た主屋。
左の白い建物が土倉です。
1階は南側に客間、食堂などの居住空間、北側に事務室・厨房・配膳室などがあり、2階は南側に夫婦の寝室、北側に浴室・仏間などが配されている。
西麻布本邸は京都、大磯、用賀、今井町にあった三井家に関連する施設から建築部材、石材、庶物などが集められて建築が行われている。邸内からは財閥が繁栄していた頃の男爵三井家の威勢を伺うことができる。
本邸の西側には土蔵が移築されている。この土蔵には1874年(明治7)の建築を示す墨書がある。伝承では駿河町三井越後屋の絹蔵であったという。西麻布邸移築前は今井町にあり、戦災にあわず焼け残っていた。なお部材の痕跡から1950年(昭和25)に移築を含め3度の改造が確認されているとか。
玄関は明治に作られた旧油小路邸(京都)の部材が使われています。
扉に瓜輪紋。
ライトはルネ・ラリックの型押しガラス工芸品。
影になってわかりづらいのですが、玄関を上がってすぐの広間の壁に、ろうけつ染の版木らしきものがはめ込まれていました。
ふと見上げると、釘隠しに七宝が使われていたりします。
玄関から広間のたった5歩程度の間でも見所が多く、いちいち写真を撮っていたら、いつまで経っても先に進めないと思いました。この日は大して時間もなかったので、大いに見逃しながら先に進むことに。
客間。
食堂。
1階の書院の二間は、1897年(明治30)に建てられた京都油小路三井邸の奥書院の部材を使用。奥書院は田字形に配置された八畳四部屋の書院で「四季之間」ともいわれた。油小路邸には高棟も設計に関わり、窓や欄間には桂離宮の意匠を取り入れてた。高公氏は油小路邸の一部を移築する際に、高棟の意匠も移すべく努力したため、油小路邸を飾っていた櫛型窓や四季を題材とした襖、月の字崩しの欄間などを現在の邸内に見ることができる。
格子天井には草木画。
客間と食堂の二間を区切る、月の字崩しの欄間。
本間に沿った広縁。奥に櫛型窓があります。天井は格天井。
邸内の襖・障子・戸に描かれた絵画の多くは、明治期の四条円山派の画家による。これらの多くは京都油小路邸建築に際して描かれたもので、森寛斎や国井応陽、応祥の画家の名前をみることができます。
玄関脇の和室、望海床。
もとは大磯の城山荘にあり、1964年(昭和39)に西麻生邸へ移されたもの。城山荘にあった当時は高棟の画室で、床にはオンドル式の暖房が設備されていたという。移築後、一時的に立礼式の茶室として使用された後、庭園にあった茶室前後軒の待合に使用されていた。
厨房と配膳室。
ここだけ、やけに西洋風でした。
厨房前の廊下。右の襖を開けると食堂です。
こんなにモダンな柄の襖は他で見たことがありません。
階段を上がって2階には、三井高公夫妻の寝室と仏間があります。寝室前の襖は、三井家らしく鶏でした。
この日は、二つの寝室が両方共畳の張替えをしていたので、立入禁止でした。
仏間。
仏壇に向かって左側に初代三井高利夫妻の画像が懸かっているほか、幕末・明治維新期の当主三井高福氏作の剪綵(色糸や絹布などで作った細工物)による龍の天井画や高公氏の父親三井高棟氏作の鳳凰の襖絵がある。先祖の霊を弔うにふさわしく三井氏歴代を感じさせる部屋となっている。
天井画は、剪綵の龍。
仏間の前の廊下は、二重折上格天井に豪華なシャンデリア。
このシャンデリアは、元は大磯の別荘城山荘にあったものだそうです。
邸内には、いたるところに鳥が描かれています。
これは、二階仏間前の廊下にある杉戸に描かれた小千鳥。
森雄山の銘がある。
一階広間の小鳥たち。
一階廊下には鴨。
こちらは孔雀。
この他にも、様々なところで鳥モチーフを見ることができます。
本邸の後に3階建ての土蔵も回り、足先の感覚がなくなるほどに冷えてからこちらを出ました。
あまりに寒かったので、他の建物を回る気力が失せました。しかし、せっかく遠出しているのだから、もう一つくらいは見たいと思って、高橋是清邸へ向かいました。この日は小学生の郊外授業もあって、集団と鉢合わせしないよう、タイミングをずらすのが大変だったりもしたのですが、なんとか。
《高橋是清邸》
経済通の政治家として、明治から昭和の初めにかけて日本の政治を担った高橋是清の住まいの主屋部分である。是清は、赤坂の 丹波篠山藩青山家の中屋敷跡約6,600平方メートルを購入し、1902年(明治35)に屋敷を建てた。総栂普請(そうつがぶしん)の主屋は、複雑な屋根構成をもっており、また当時としては高価な硝子障子を、縁回りに大量に使用している。赤坂にあったころは、主屋のほか3階建ての土蔵や、離れ座敷がある大きな屋敷だった。
赤坂にあった政治家の高橋是清邸の主屋部分を移築したもので、是清は本所押上から赤坂へと移り住み、1902年(明治35)にこの家が完成してから、1936年(昭和11)の2・26事件で暗殺されるまでの30年あまりをこの家で過ごしたそうです。
一階の南、それぞれ十畳の二間に反った日当たりのよい縁側。
当時のままの、手吹円筒法で作られた手延の板ガラスが使われています。
二階の南、是清が暗殺された寝室に沿った縁側です。
二階の奥にある15畳の間。
硝子障子の模様がとてもきれいでした。
ここはガラスが多くて陽当たりがよかったこともあって、三井家よりは冷えずにすみました。
2月に入り、園内の梅もちらほら咲き始めていました。
この辺ならウメノキゴケが見つかるかと思って少し回ってみたのですが、私でも同定できそうなほど明らかなものは見当りませんでした。
もっと時間があれば小金井公園の梅林まで足を運んだのですが、残念。
ビジターセンターに戻って、展示室へ。
武蔵野の歴史と民俗展を開催していました。
武蔵野の考古資料として土器やアクセサリーの展示、その他に、民俗資料の展示がありました。
《絵馬》
《小絵馬「八つ目」》は、病眼(やむめ)と読んで眼病治癒を祈ったもの。他に、縁切りだとか酒断ちだとか、切な願いが並んでいました。
《郷土玩具》
《江戸姉様》《今戸土人形》《犬張子》が並んでいます。この他に、《すすきみみずく》や《弾き猿》などもありました。
下段中央にあるのは、《王子稲荷暫狐(紙からくり)》です。馬の博物館で見た、北斎の《馬尽 初午詣》に描かれていました。実物が見られてうれしい。
残念ながら、ここでタイムアップ。大急ぎでバス停まで走りました。
それにしても、ここは一日過ごせそうな場所でした。工事中で入れないところもたくさんありましたし、見足りない気持ちでいっぱいです。またチャンスがあれば積極的に足を運びたいと思います。
清澄庭園
この日は昼からジョギングがてら、清澄白河散策にでかけました。
途中、隅田川テラスの古いレンガを使った護岸が気になりました。
この辺に煉瓦工場でもあったのかと思いきや、どうやら、明治期に明石町一帯にあった外国人居留地をイメージしてレンガ風に修景されたようです。一体どこから運んできたレンガなのでしょう。
せっせと走って、清澄庭園到着。
清澄庭園は、三菱財閥の創始者・岩崎彌太郎が明治11年(1878)に荒廃していた大名の下屋敷や豪族の館跡の土地約3万坪を買い上げ、大規模な造園工事を開始し、弟・彌之助、長男・久彌へと岩崎家3代によって明治24年(1891)に「廻遊式林泉庭園」が完成されました。当時は「深川親睦園」といわれ、三菱社員の慰安や内外賓客を招き接待する場として用いられていました。
清澄公園は東京都の指定名勝に指定されています。午前9時から午後5時まで開園していて、入場料は、一般が150円です。
庭園に入ってすぐ、水鉢と庭石がありました。
清澄庭園では、伊豆磯石、伊予青石、紀州青石、生駒石、伊豆式根島石、佐渡赤玉石、備中御影石、讃岐御影石など、多くの名石が見られ、さながら石庭の観。岩崎家が自社の汽船を用いて全国の石の産地から集めたものなんだそうです。
手前は磯渡りに続く石橋。松島、輪島、中の島の三つの島を配し、敷地の半分を占める広い池が広がります。昔は隅田川から水を引いていたそうですが、現在は雨水でまかなわれているそうです。
入り口から池を挟んで対面に涼亭があります。
池に突き出るようにして建てられた数寄屋造りの建物は、明治42年国賓として来日した、英国のキッチナー元帥を迎えるために岩崎家が建てたもの。
玄関の磨りガラスがかわいらしい。
池を離れたところにある広場に、松尾芭蕉を偲ぶ石碑がありました。
芭蕉の最も有名な句、「有名な古池や かはづ飛び込む 水の音」が刻まれていました。深川に芭蕉の庵があり、そこから「奥の細道」につながる旅がはじまったのを記念して建てられたものなんだとか。
見事な紀州青石。この他にも、伊豆磯石や秩父青石など見かけました。石の種類はさっぱりわかりませんが、徽宗の花石綱を思い出し、その世界は、きっと底の見えない沼に違いないと思いました。
大正記念館前の芝生。
ソテツかなにかでしょうか。霜よけで頑丈に守られていました。
国宝 雪松図と花鳥 ―美術館でバードウォッチング―@三井記念美術館
正月の目出度い気分をまだまだ味わいたくて、三井記念美術館へ。
只今、国宝 雪松図と花鳥 ―美術館でバードウォッチング―(キャッシュ)を開催しています。
続きを読む正月の恒例となっています国宝 雪松図屏風の展示に合わせ、今回は館蔵品のなかから花鳥をテーマに作品をセレクトいたしました。なかでも、鳥が描かれた絵画や、鳥をかたどったり、鳥にあやかった名称の工芸品などに焦点を合わせております。花鳥画の鑑賞とともに、美術館でバードウォッチングも楽しめます。