MIYABI遊園2017@目黒雅叙園
初詣の後は、今年で11年目となるMIYABI遊園へ行きました。
《お七の井戸》
目黒雅叙園の入り口にあります。
八百やの娘お七は、恋こがれた寺小姓吉三あいたさに自宅に放火し、鈴ヶ森で火刑にされた。
吉三はお七の火刑後僧侶となり名を西運と改め明王院に入り、目黒不動と浅草観音の間、往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行をなし遂げた。
明王院という寺院は、現在の目黒雅叙園エントランス付近から庭園に架け明治13年頃まであった。
この明王院境内の井戸で西運が念仏行に出かける前にお七の菩提を念じながら、水垢離をとったことから「お七の井戸」と言い伝えられている。
ちなみに、お七の家があったとされるのは文京区駒込です。
目黒雅叙園のエントランス。アルコタワー(右)とアルコタワー・アネックス(左)の曲面に挟まれて、車寄せに張り出した曲面の切妻屋根。棟飾りの鳳凰で縁結びを意味しているのだそうです。
一歩入ればそこは「昭和の竜宮城」といわれた目黒雅叙園ワールドです。
きらびやか。
招きの大門に至る廊下も豪華絢爛。両脇の池には生花が飾られていました。
歩いて回るだけで楽しい。すっかりディズニーランド気分です。
廊下の先にある広間で縁日が行われていました。
くじ屋もあります。
少し離れたところから明るい囃子の音が聞えてきました。東が丘保存会の目黒囃子と獅子舞は、目黒区無形民俗文化財です。この後舞台を控えていたので、予行練習を兼ねていたのかもしれません。
囃子の明るい調子が場を盛り上げます。獅子舞の伸びやかな舞がお見事です。元旦早々、良い物を見せていただきました。
初詣@瀧泉寺
遅ればせながら、あけましておめでとうございます。今年も博物館巡りで楽しく過ごそうと思っています。変わらぬ、お付き合いをよろしくお願い申し上げます。
近々、ブリーダーを営んでいる知人の犬が出産を控えているので、初詣は犬に縁の深い龍泉寺へ行きました。こちら、子連れ犬像がたくさんあるので犬好きには有名なお寺です。いや、犬に関係なく、歴史も古く江戸三大不動のひとつ、目黒不動尊としてよく知られているのですが。
瀧泉寺開山以前の地主神「大行事権現」の神使である和犬の像。仁王門をくぐった先の広場にあります。和犬は立ち耳なので、耳を後ろに引いている様子を表わしているのかもしれません。犬語では畏怖や甘えの意味があります。前脚の間に仔犬がいます。
乳があるのでこっちが母犬。
うっすらと口が開いていて犬歯が見えます。耳を引いているので、これは威嚇の顔です。追い詰められた母犬が仔犬を必死に守ろうとしています。まだ腰を上げていないので、飛び掛ってくるまでもう少し余裕が見えますが、これ以上近づいてはいけないようなので、距離を保って参拝。
前不動堂(東京都指定文化財)の前にも和犬像があります。こちらは頭を下げて畏怖を表わしています。ここでは片方しか紹介しませんが、これも向かい合って対になっています。
この他にも独鈷の滝の周りとか、境内のいろんなところに犬の像があります。
《銅造役の行者倚像 江戸時代後期 寛政8年(1796年)目黒区指定文化財》
女坂の途中、神変大菩薩として祭られているのは、修験道の祖として崇拝されている役の行者(役小角)です。像の腹、胸、腕に刻銘があり、願主の名や、神田の鋳工、大田駿河守藤原正義の作であることがわかります。お参りすると脚や腰を強くしてくれるという言われがあり、多くの人がなでるので像の脚が光っていました。
大本堂です。
参拝した後に単眼鏡で本堂の奥を見てみると、黒い御本尊が見えました。不動明王なので力強い憤怒の表情です。色彩が施された脇侍が両脇にいます。不動明王というのは破邪顕正の明王として、全ての災難厄難を退けて福となす、福寿開運の仏だそうです。
実は、瀧泉寺の御本尊は秘仏で、通常は見ることができないそうです。しかし、十二年に一度だけご開帳があり、それが酉年の今年。知らずに行ってみたら、ご本尊を拝めたという偶然。今年は先行き良さそうです。
本堂の天井を見上げると立派な龍の絵がありました。《波涛龍図 川端龍子》です。本堂内の撮影は禁じられているので、記憶にだけ残しました。
《銅造大日如来坐像 江戸時代 天和3年(1683年)目黒区指定文化財》
本堂の裏に回ると、不動明王の本地仏である大日如来像がありました。パーツを鋳造して組み合わせた吹き寄せという技法で作られています。台座部分に刻銘があり、天和3年に鋳物師、横山半右衛門尉正重が作ったことがわかります。江戸時代には堂舎に納められ、その後は長い間露座でしたが、現在は八角形の覆屋根が設けられています。
大日如来を守護するように四隅に四天王がいます。
左上から時計周りに、広目天(西)、増長天(南)、持国天(東)、多聞天(北)です。
さらに、この奥に鳥居があって地主神である大行事権現が祭られていました。初詣だし神使いの和犬像に会いに来たのなら、実はこっちにお参りするべきだったんじゃないかと、記事を書きながら思った次第です。
※1月7日、母犬仔犬共に無事に出産を終えたとの知らせ。近々瀧泉寺和犬像にお礼参りに行きます。
マリメッコ展@Bunkamura ザ・ミュージアム
Bunkamura ザ・ミュージアムにマリメッコ展を観に行きました。
前売り券を買っていたのに展覧会が始まってもなかなか足を運ばなかったのには理由があって、年末年始はどこの美術館も軒並み休館するので、Bunkamuraはそのタイミングで行ける貴重な存在として残しておいたのです。
こちら隣の東急百貨店本店。マリメッコの垂れ幕が目立ってます。
東急百貨店を通り抜けて地下のザ・ミュージアムへ。入り口にはマリメッコ展のポスターがずらりと並んでいました。
せっかく大きな柄が特徴のマリメッコなのに、小さなポスターばかりなのが残念です。
展覧会を見る前の私のマリメッコ感はというと、自分で着るのは無理だけど、額装して壁に飾ったりなら出来るかもといった程度の好き具合。ただ、デザインとしてどこか惹かれるものがあるので、ここでたくさんの作品を見てどの辺に引っかかっているのかを見極められればと思っていました。
展覧会は、はじめに、マリメッコの歩み、デザインの芸術の3部構成です。展示数もさることながらラベリングが細かいので、作品リストを追うのが大変でした。
Ⅰ:はじめに
マリメッコの歴史を語るには欠かせない、大胆な色づかいや柄。 ここでは1950年代~2000年代の象徴的な柄のファブリックを展示し、時代を経てなお新鮮なマリメッコのデザインの魅力をお楽しみいただきます。
マリメッコとは「小さなマリーのドレス」という意味。ブランドロゴはイタリア製タイプライターであるオリヴェッティの書体でできています。
このコーナーでは、マリメッコのよく知られた大きな図柄のファブリックが展示されていました。マリメッコを一躍有名にしたマイヤ・イソラ図案《イソト・キヴエット(大きな石)》《ウニッコ(ケシの花)》《カイヴォ(泉)》、脇坂克二図案《ユメ(夢)》が目を惹きました。
展示会場内の空調が悪いようで、途中でクシャミが止まらなくなりました。私はハウスダストのアレルギーがあるものですから。入り口の外気が入るところまで戻ると、ようやく呼吸が整ったものの意気消沈。布系の展示ってのもあったのかなあ。
Ⅱ:マリメッコの歩み 1951-2016
このセクションでは、60年以上におよぶマリメッコの歴史をたどります。 ジャクリーン・ケネディに愛された1960年代、様々な製品開発により市場を拡大した70年代、その後の様々な展開を経て、世界的なブランドへと成長した現在。 創業当時からの貴重なドレス、ファブリック、アクセサリーや食器などに加え、時代を創った著名デザイナーのインタビュー映像を展示します。 マリメッコの歴史上重要な役割を果たした日本人デザイナーや、ジャクリーンが実際に所有していたドレスも紹介します。
ここでは、マリメッコを牽引していった人たちを軸に展示品が並びます。創業者アルミ・ラティア、初の正社員デザイナーであるヴォッコ・ヌルメスニエミ、色鮮やかで大胆な図案を生み出し世界中の人々を魅了したマイヤ・イソラ、大量生産技術を見据えたアンニカ・リマラ、ウール素材を持ち込んだリーサ・スヴァント。新しいデザイナーたちとして、初の外国人デザイナーとして採用された脇坂克二、ユニセックスな服を作ったペンッティ・リンタ、もう一人の日本人デザイナー石本藤雄、ニットコレクションを手がけたマルヤ・スナ、現在第一線で活躍し《シールトラプータルハ(市民菜園)》などを生み出す、私もお気に入りのマイヤ・ロウエカリ。
大胆な色使いは実際に着るとなれば気が引けてしまうのですが、見る分には心躍るものばかり。ファブリックの図案を生かすよう最小の裁断でできるように作られているというドレスたちはどこか和裁に通じるところがあって、そこに私は惹かれているのかと合点。そして、明らかに北欧デザインでありながら日本人の感覚にマッチしている気がしていたのは錯覚でも何でもなくて脇坂克二氏や石本藤雄氏のような日本人デザイナーが活躍していたからだとわかりました。
マリメッコの個性的な図案は実に様々で自由です。いろいろと見ていくうちに、好きなものとあまりピンとこないものがはっきりと意識されて、私の判断はどこかミニマルなところを探しているなと自分の嗜好が見えてきました。そこを突き詰めていくと、禅画に落ち着きそうな予感がするので、来年はもっと禅画を見るようにしようかな。
Ⅲ:デザインの芸術
マリメッコのデザインはどのように生まれ、製品化されていくのでしょうか。ここでは、デザイナーがデザインを描き起こしてから、ファブリックとして製品化されるまでの過程を、ヘルシンキのマリメッコ本社にあるプリント工場の貴重な映像を交えながら紹介します。また、デザイナーが柄の構想を練る際に描いた自筆のスケッチと、実際に製品化された同じ柄を並べて展示します。 マリメッコの有名な柄が生まれた原点をご覧ください。
まず、マリメッコのデザインを、色や幾何学模様、自然素材モチーフ、コインモチーフ、デザインサイズなどに着目して分類展示してありました。さらに、ここでは図案の原画が展示されていました。原画はやはり力強いし製品よりもさらに個性が出ます。原画とファブリックが並んで展示されていると、パタンのリターン処理がどうなっているかがわかりやすかったし、デザイナーによっては小さく描いて大きく引き伸ばしたりしているのも面白かった。
脇坂克二の原画はどれも水彩画。どれもこれも心惹かれるデザインばかりだったのですが、特に《プロ(小川)》が気に入って、ソファに座ってずっと眺めていました。で、ここにきて、ようやく気がついたことがひとつ。私が青山に行く時に必ず立ち寄るSOUSOUというブティックがあります。実は、これ脇坂氏が立ち上げたブランドでした。人名を覚えられない自分にまたしてもガッカリです。どうりでマリメッコが気になるわけだ。デザインに同じDNAが流れてたとはね。
展示室出口直前、製造ラインのビデオが流れていました。プリントやチェックの工程が紹介されていたのですが、日本の製造ラインと比べるとどこかのどかな空気が流れていて微笑ましく思いました。製品を作っている人の顔が見られるのっていいですね。
東急百貨店向かいのVIRONで、大好物のジャンボンフロマージュ。
- ジャンル:パン
- 住所: 渋谷区宇田川町33-8 塚田ビル 1F
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- (写真提供:湘南かずや)
濤沸湖水鳥・湿地センター
オホーツク流氷館が思ってた以上にこじんまりとしていて、飛行機の時間まで余裕があったので濤沸湖(とふつこ)に白鳥を見に行きました。車を停めると山の方から甲高い鳴き声。知床半島が近いので、おそらくエゾシカでしょう。
白鳥展望公園内、野鳥観察舎からの眺め。
湖の奥に見えるのは斜里岳です。
濤沸湖はアイヌ語のトプッ(湖の口)に由来しています。川の水と海の水が入り混じる汽水湖で、海から栄養分に富む海水が流れ込み、自然豊かな環境となっています。一帯は網走国定公園にも指定されており、野鳥や植物の観察に多くの方が来訪される一方、ワカサギ漁などの内水面漁業も行われ、永年にわたって環境保全とワイズユース(賢明な利用)が行われてきた湖です。
水鳥の楽園になっていることから、水鳥の生息地を守る条約(ラムサール条約)に登録されています。
濤沸湖は、「汽水湖、低層湿地が我が国を代表する湿地である」「タンチョウ(絶滅危惧Ⅱ類、国内希少野生動植物)が生息する」「渡りの時期のガンカモ類の最大渡来数が約6万7000羽、定期的に2万羽以上の水鳥を支えている(平成17年の数値)」「オオハクチョウを含む5種類の水鳥について東アジア全体で確認される個体数の1%以上を定期的に支えている」などが評価され、平成17(2005)年、登録湿地となりました。
濤沸湖水鳥・湿地センターです。
資料展示室には濤沸湖に生きる動物の標本や剥製が展示されています。
展示室です。
濤沸湖周辺の自然、歴史、文化、利用に関する展示があります。
展示室の奥に展望コーナーがあり、大型の望遠鏡や双眼鏡が使えます。空いているので思う存分観察しました。
冬鳥のオオハクチョウが餌を獲っていました。
オホーツク流氷館
この日はよく晴れました。
オホーツク流氷館は天都山山頂にある流氷とオホーツク海をテーマとする網走市立の科学館です。大昔に行った記憶がありましたが、去年リニューアルされたそうなので再訪しました。
オホーツク海の生き物を飼育展示しています。
流氷の天使《クリオネ》
その正体は、殻のない巻貝だそうで。
《フウセンウオ》
《オオカミウオ》
流氷幻想シアターでは、5面の大型スクリーンで流氷のなりたちや流氷到来期の風景が映し出されます。
こういうの見ちゃうと、また流氷の時期に網走来たくなるなあ。
流氷体感テラスではマイナス15度の室内で本物の流氷に触れます。
塗れたタオルを30秒ほど回すと、このとおり。
完全防寒していましたので、マイナス15度でもへっちゃら。むしろ風がない分、外よりマシだったかも。
3階屋上は展望テラスです。
西側は網走市街側の風景。白く見えるのは網走湖と大曲湖畔園地。三眺山を越えた奥に見える青いのが野取湖です。
東にはオホーツク海。写真右から奥に知床半島がつづき、雲に隠れていますが斜里岳が望めます。
展望台に登るだけなら入場料は不要です。
博物館網走監獄
ホテルのチェックインまでもうしばらく時間があるので、網走市観光続き。
博物館 網走監獄は「北海道開拓と監獄受刑者」をテーマとした天都山麓に位置する野外歴史博物館で、網走刑務所の旧建造物をそのまま保存公開しています。
入場の際に貰った散策マップをみて愕然となりました。かなり広い。じっくりコース約90分、早まわりコース約60分とあります。しかも、建物を見るところだから、外を移動しなきゃ文化財が見られない。悪天候の時に来ちゃいけない場所でした。気づくの遅すぎ。
《正門》
現在の網走刑務所と同じものだそうです。正門の建物は両脇に部屋があって、それぞれ監視部屋と面会部屋になっています。
館内にはリアルな蝋人形があちらこちらに置かれていて、当時の職員や囚人の様子をリアルに再現していました。やけに存在感があるので、ふとした時に視界の隅に入ると心臓に悪いです。
《◎庁舎》
明治期の官庁建築の典型で、木造平屋の寄棟瓦葺き屋根で屋根窓がある。正面は切妻破風で半円アーチのドーマー窓があり、その下に同じ意匠の入母屋屋根の車寄せポーチを作っている。水色とグレーの外観庁舎は「最果ての不夜城」と呼ばれたそうです。
庁舎には囚徒が切り開いた北海道開拓の歴史と、重要文化財の見どころを紹介した展示コーナーがあります。
《旧網走刑務所職員官舎》
看守長屋と呼ばれ、一軒の広さは9坪。
《◎網走刑務所裏門》《○哨舎》
通称「通用門」と呼ばれた裏門は、赤煉瓦門塀製作開始の大正8年(1919年)に着工した門で、その後5年をかけて収容者が煉瓦を積み、全長1,080mの赤煉瓦の塀を完成させました。哨舎は出入り口や作業場にあって収容者の行動を監視する場所です。ここの哨舎は昭和60年頃まで実際に使用されていたものなんだそうです。
ここにきて吹雪がますますひどくなってきたので、じっくりコースを断念し、早まわりコースで監獄歴史館へ。
ここでは監獄の歴史や当時の囚徒の暮らしや作業を紹介しています。
《単独室》
こちらは現在の網走刑務所の居室を再現したもの。
単独室には、原則として1名で収容されます。網走刑務所の新しい単独室の部屋の広さは7.52㎡(約四畳半)です。現在、日本の刑務所は、単独室の数を大幅に増やし、被収容者の居住空間の向上に努めていますので、網走刑務所においても単独室は938部屋となり(平成22(2010)年1月現在)、共同室に比べ格段に多くなっています。
各室内には机、布団が置かれています。被収容者は身の回り品の他、室内装飾品として写真や花瓶を置くことが許されています。
《鉄丸》
屋外作業時の収容者の逃走防止に使っていた鉄球を装着体験できます。
作業地への移動は、目立つように黄色の囚人服を着せられ、顔が見えない笠を被せられて両手を繋がれます。
囚人服の試着コーナーもあります。
《◎舎房及び中央見張所》《○哨舎》
五翼放射状官舎の入り口とです。せっかくの建物ですが、あまりにも吹雪いて撮影場所を選ぶ気力もなくなりました。
《中央見張所》
この建物は中央見張所を中心に側面から後方に放射状に建つ五つの木造平屋建ての舎房からなり、間を渡り廊下で接続しているため五翼放射状房と呼ばれています。雑居房と独居房合わせて226房、最大700人を収容可能だそうです。
《舎房とストーブ》
天窓が高い分、冬は余計に寒々しい。
竪格子は平行四辺形断面もしくは「く」の字形断面の格子となっており、換気や暖房に配慮し、廊下に立つ看守からは中が見えつつ、向かい房同士の収容者が見通せない工夫がなされています。
いくら廊下にストーブが入っているとしても、こんなぺらぺらの衣服で寒さをしのぐのは、それだけで懲罰のようなものだったと思います。
《○煉瓦造り独居房》
懲罰房で窓がなく光が入らない暗闇。規則違反をした人が入れられる。収容者が最も恐れた場所。
本当は庁舎にあったミュージアムショップにも行きたかったのですが、途中尻餅をついたりしたもんだから、道を戻る気力もなくて断念。二度目があるなら、次は天気の良い日に行きたいです。
北方民族博物館
急遽、旅行に行けることになったので、JALのどこかにマイルに申し込みましたところ、徳島、秋田、釧路、女満別の4択で女満別空港に決定しました。いつもの半分6000マイルで行けるなら、どこだってありがたい。
しかし、出発前日北海道の天気は大荒れ。札幌なんて50年ぶりの積雪とかいう状態で北海道・東北地方は軒並み欠航。当日も午前中の北向きの便は絶望的な雰囲気でしたが、女満別行きは途中で引き返す可能性を残しての条件付フライトとなりました。心中穏やかでない空の旅でしたが、無事に女満別に到着。機長、グッジョブです!
かくして、吹雪の中、網走市の北方民族博物館に行きました。この時、網走市の気温はマイナス1度で、風速8メートルでした。外で写真を撮ろうもんなら頬に粉雪が石礫のように当たって痛いのなんの。
天気の悪い日ほど博物館はありがたく、いつでも完璧な空調です。暑いのを嫌って精密機械を扱う仕事に就いたくらい軟弱な私に、博物館巡りはぴったりの趣味だと今さらながら思います。
展示室入り口の前に「いろいろな毛皮の手触りを体験してみよう」と動物の毛皮が置いてありました。
アザラシの毛皮は硬く丈夫そうで、毛並みに沿って触るとつるつるしています。トナカイのは厚みと弾力があっていかにも暖かそう。これは着てみたい。そして、クロテンの毛皮は柔らかくて繊細。直に柔らかい肌に使いたくなります。この毛皮がどれほどまでに北国の暮らしに必要なものか、吹雪の中を来たので実感しました。
展示室入り口です。
お面のようなものが飾ってありました。
さよなら絶望先生のうろおぼえのペンギン!(違
北のクロスロード
人類の北への進出には暖かい衣類を作る技術が欠かせませんでした。そこで、「北のクロスロード」のコーナーでは北方民族の意匠が展示されていましたが、それが実に素敵な展示で、まるでアウトドアブランドのブティックみたい。民族衣装の展示とはいえ、おしゃれなものばかりです。
《ナーナイ花嫁衣裳》
帽子からブーツまで凝った刺繍が施されています。背中に氏族の繁栄を願う「氏族の木」の文様がありました。
《ウィルタ族の衣装。》
暖かそうだし、なによりデザインがかわいらしい。これは着てみたくなります。
特殊な素材を使った服も展示されていました。
《腸製衣》
アラスカのイヌイト族が作るアザラシの腸を使った防水製の服です。
水上での漁や舟旅のさいに、着用される防水性に富んだこの衣服は、おもにアザラシの腸から作られる。チュクチやアリュート、イヌイトなど北太平洋から北極海沿岸で海獣狩猟を行う民族に多くみられ、腸の継目は水の侵入を防ぐように厳重に縫い合わされている。
防水紙のような質感です。
《魚皮衣》
沿海州のウリチ族の衣服です。
近づいてみると模様がおしゃれです。どれくらい柔らかくしてあるのか、触って確かめたかったなあ。
《樹皮衣》
アイヌ刺繍です。色も刺繍も質素ですが、このなにやら不思議とデザインに惹かれます。それにしても、実に固そう。防寒性は期待できそうにないので、こういうのは夏用なんでしょうか。
高緯度にありながら比較的温暖で、樹木の多い北アメリカ北西海岸では、木の内皮を割いて織った衣服が用いられていた。素材はヒノキ科の針葉樹が多く、ケープや巻きスカートのような単純な形をしている。また、アイヌには、オヒョウなどの木の内皮やイラクサなどの草から織ったアツシとよばれる服がある。
《イヌイトの竪穴住居》
左側が入り口になりわずかに膨らんでいる部分(犬が休んでいるあたり)が通路(トンネル)。その下に空間があって貯蔵庫になっている。地面に丸く飛び出して掘られている部分が台所。右が居住空間の主室。約5畳で5名程が暮らす。屋根にはアザラシの腸で作った天窓がある。
この復元住居は、北アラスカの海岸地域に住むイヌイト・タレウミウトの一家族用の伝統的な冬の住居をモデルとしている。
永久凍土を掘り、そのなかに流木や鯨の骨などで枠組みを作り、最期に全体をおおうように芝土をつみあげて作る。最も深く作られたトンネル部分には、外の寒気が居住空間に入るのをさえぎる効果があり、またそこには台所や貯蔵スペースがもうけられている。ただし、実際のトンネルはもうすこし長い。
通路(トンネル)部分と台所。横に渡した梁の支柱は鯨の下顎骨。台所の木が組んであるところに吊るしてあるのは鯨の肩甲骨で、それが台所の屋根になる。
環境と調和した北のくらし
このコーナーにあるマジックビジョンでは18世紀のグリーンランドの一年を紹介するビデオがありました。冬はアザラシ狩りをし、氷が溶けるとカヤックで移動し、夏の居留地では川を遡上する魚を獲ったりベリーを採集していました。冬と夏で居留地を移動する生活は、まさに限られた食料を巡っての暮らしです。
そんな狩猟生活の中で、動物界を支配する神の概念が発達します。クマ送り(イヨマンテ)やシャマニズムの儀礼に使われる道具や衣装の展示もありました。
《呪術用護符 イヌイト族 グリーンランド》
かわいい。ミュージアムショップで売ってたら、レプリカでも絶対買うのに。
アザラシ狩りのビデオもありました。
犬が役立ったり邪魔したりしているのが面白かった。
《雪眼鏡 イヌイト族》
北の自然の中で
最後のコーナーには、文化の継承として、伝統的な装飾を施した工芸品が展示されていました。
サミ族の伝統文様が入ったトナカイ角製スプーンです。
このスプーンもほしかった。
まだまだたくさん写真を撮ったのですが、限がないのでこの辺まで。こちら、期待以上に楽しめて大満足。工芸品などが好きな方には必見の博物館でした。