「昆虫」展@国立科学博物館
日傘を差していても暴力的な日差しにおののく毎日です。この日は通勤電車に揉まれて上野へ向かいました。
国立科学博物館で開催中の特別展「昆虫」に突撃です。
平日の朝なので、行列はありませんでした。
それほど昆虫には思い入れがないので、単なる昆虫展なら行くことはなかったのでしょう。でも、このポスターがあまりに見事だったので、これは行くしかないと。
何度見ても惚れ惚れします。
トーハク縄文展の帰り道にこんなこともありました。
トーハクの帰り道、科博の前を歩いていたら、前を行くふたり組が「来週から香川照之の昆虫展があるらしいよー」と話してた。
— クマ (@MelonpankumaA) 2018年7月7日
え?そんなタイトルだったっけ?
そんな特別展があったら、私、毎日のように通いそう。
本展は、昆活マイスター香川照之氏と、オサムくんとホタルちゃんが音声ガイドを務めていました。美術関連の展覧会で音声ガイドを使うことはないのですが、今回はもちろん使います。音声ガイドについてくる昆活キャップも貰いました。チラシとカメラで手が足りなくなったので、頭に被ったところ、単眼鏡はあるわ、音声ガイドのヘッドホンはあるわ、昆活キャップはあるわで、頭の周りがごちゃごちゃして、とんでもないことになりました。
続きを読む野口哲哉 「~中世より愛をこめて~ From Medieval with Love」@ポーラミュージアムアネックス
例年にない暑さを記録する日々。陽が傾くのを待って、銀座ポーラミュージアムアネックスに行きました。
野口哲哉 「~中世より愛をこめて~ From Medieval with Love」(キャッシュ)です。
表情豊かな鎧姿の人物を制作し、国内外でも人気の若手作家 野口哲哉氏の4年ぶりとなる大型個展を開催します。
不思議な佇まいと、纏う鎧兜の精巧さが織りなす作品は、どこか他人事には思えないペーソスと、思わず微笑んでしまうユーモアが同居しています。
夕方なので会場はポツンポツンと人がいる程度。
それほど広くない展示室で光も眩しいほどでしたが、心地よいBGMが流れていて自然とリラックスできます。
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浅草富士浅間神社
待乳山聖天から近いので、浅草富士浅間神社に行きました。
江戸時代に流行った富士講で勧請された、富士山遥拝所としての浅間神社の一つです。
境内に2016年に作られた富士塚があります。もちろん登拝します。
富士山と同じく五合目に登山口。7つの階段を上がると頂上です。
石祠のある方向に富士山があるということですね。
浅間神社のすぐ隣が富士小学校だったり、その近くに富士公園があったりと、周辺には富士の名前が多くみられました。
浅草富士浅間神社に立ち寄った理由のひとつに、この近くに粟ぜんざいで有名な梅むらがあるからだったのですが、行ってみたら開店前で準備中の札がかかってました。ここであんみつを食べるからと、築地の福茂に寄るのを我慢したというのに。あまりのショックで膝から崩れ落ちるかと思いました。
気を取り直し、私の食いしん坊データベースで観光客で溢れていないお店を検索して浅草観音通り商店街に向かいました。
冷房がキンキンに効いた珈琲屋ハローでクールダウン。昭和レトロなチョコレートパフェで帰宅のためのエネルギーを補充しました。
待乳山聖天
三囲神社から言問橋を渡って対岸の浅草へやってきました。浮世絵でよく描かれている待乳山聖天です。
《東都名所・真乳山雪晴 1枚 歌川広重筆 江戸時代・19世紀》
こちらも大旱魃の時に大聖歓喜天の姿で十一面観音菩薩が現されて民をお救いになったという話が残っていますので、東京に少しばかりの涼しさを願って夕立祈願します。
『江戸名所図会 7巻 松濤軒斎藤長秋 著 天保5-7(1834-1836)』の17には真土山聖天宮として描かれています。
震災や戦災で本堂などが焼失し、ほとんどの建物が昭和に入って再建されたものです。
お花と大根を奉っている人がいるのに気が付いてまわりを見渡したところ、境内のいたるところに大根と巾着モチーフがありました。上の写真では階段脇の塀に大根と巾着が描かれています。大根は健康、良縁、一家和合を、巾着は商売繁盛を表すのだそうです。
この日は出世観音供養会が行われており、猛烈な暑さにも関わらず、境内は賑わっていました。
江戸時代から残る築地塀がありました。
上で示した『江戸名所図会』でも確認することができます。
待乳山聖天を出て待乳山聖天公園を抜け、今戸橋があった場所に向かいます。
山谷堀が埋め立てられ、現在は山谷堀公園として整備されています。江戸時代は新吉原遊郭への水上路として、隅田川から遊郭入口まで遊客を乗せて行き来していたそうです。そのため、吉原通いを「山谷通い」とも言いました。ちなみに、日本堤は山谷堀の南に沿ってありました。
『江戸名所図会 7巻 松濤軒斎藤長秋 著 天保5-7(1834-1836)』の17に今戸橋周辺の様子が描かれています。
今戸橋の跡が山谷堀公園の入り口に残されていました。
江戸時代によく描かれている土地を歩くと、あちらこちらで浮世絵で知った地名を見つけて楽しいです。
三囲神社
牛嶋神社から徒歩3分で今回の散歩の目的地、三囲神社(みめぐりじんじゃ)に到着。東京があまりに暑いので、少し涼しくしてもらえないかと、夕立祈願です。
こちらは、宇迦之御魂神を祀る稲荷社です。お社は安政大地震後の文久2年(1862)に再建されて、明治に修繕されたものが残されています。
社殿は権現造。屋根にも狐の像がありました。
三囲神社は古くから三井家に信奉されました。三囲神社のある向島が、三井の本拠である江戸本町から見て東北の方角で鬼門だったことと、囲の文字に三井の「井」が入っているので「三井を守る」と考えられたためだそうです。各地の三越に分社されています。
下は、銀座三越の屋上庭園にある三囲神社(左の社)。この横に社務所もある。
三囲神社境内には三越にまつわるものがあちこちに見られます。例えば、池袋三越前にあったライオン像。
三井三店のひとつ向店が、享和2年(1802)に奉納したお狐さま。
パネルの説明によると、目尻のさがった温和な表情を、この辺の方は「みめぐりのコンコンさん」みたいと言ったそうです。
たしかに、とても温和なお顔をしています。
この神社は、元禄六年のひでりの際に、俳人宝井其角(たからいきかく)が雨乞いの句を捧げ、翌日降雨があったことで、広く知られるようになりました。
境内に句碑が置かれています。
「此御神に 雨乞する 人にかはりて 遊ふ田地や 田を見めくりの 神ならば 普 其角」
《◯三囲神社の夕立 3枚 鳥居清長筆 江戸時代・18世紀》
鳥居清長の絵では、空に雷神達が描かれています。
社殿の裏に回ると、摩訶不思議な気分にさせられる三柱鳥居があります。
この鳥居の他にも、三つ穴灯篭があったり、つくばいの屋根も三本の柱支えられていたりと、「三」にまつわるものが集められていました。
『江戸名所図会 7巻 松濤軒斎藤長秋 著 天保5-7(1834-1836)』の19に三囲神社が出ています。
『五元集』早稲酒や稲荷よひ出す姥かもと 其角
この日は完全にしくじりました。三囲神社を出てすぐに言問橋の方に向かって歩いてしまったので、隅田川に向かっている石造鳥居(堤下の大鳥居)の写真を取りそこねました。最も浮世絵などで描かれている鳥居だというのに。境内からは門が閉じられてて直接向かえなかったのです。
※後日、撮影しました。
《鈴木春信 百人一首「安倍仲麿」》にあるとおり、大鳥居の頭だけ見えるのが三囲神社の描かれ方です。
言問橋を渡って対岸から三囲神社を確認してみようと思いましたが、まったくわかりませんでした。
おそらく矢印のあたりです。
↓ 二度目の三囲神社めぐり。
牛嶋神社
三囲神社に向かって都営浅草線本所吾妻橋駅から歩くこと5分。信号の牛嶋神社前という表示に気がついて立ち寄りました。狛犬ならぬ狛牛がいることで知られる牛嶋神社です。
隅田公園側からみた一の鳥居。奥に三輪鳥居が見えています。
『江戸名所図会 7巻 松濤軒斎藤長秋 著 天保5-7(1834-1836)』の19には牛御前宮とあります。
関東大震災前は墨堤常夜灯の東側にあったのが、昭和7年(1932)に墨田堤の拡張によって現在の地に再建されたそうです。この絵を見るに、当時は三輪鳥居ではなく両部鳥居だったようです。
一の鳥居を入ってすぐのところに、さっそく牛の像がありました。包丁塚です。
三輪鳥居をくぐった先に狛牛。
反対側にもいます。
その手前、岩の上にやたらかっこいい獅子がいました。
お社は総檜権現造りの大変立派なものです。
江戸時代に鬼門守護の社として将軍家の崇敬があったとのこと。中で参拝すればよかったな。
すみだ北斎美術館がオープンした際に大変話題になった《須佐之男命厄神退治之図》の絵馬は、牛嶋神社に奉納されていたものです。元は本殿に懸けられていましたが、関東大震災で本殿と共に焼失しました。
思いがけず、葛飾北斎ゆかりの神社を訪れることができました。