ミナ ペルホネン/皆川明 つづく@東京都現代美術館
東京都現代美術館を訪れたのは何年ぶりでしょう。2019年3月にリニューアルオープンして初めての訪問です。
ミナ ペルホネン/皆川明 つづくを観ました。
ミナ ペルホネンは、デザイナーの皆川明(1967-)が設立し、ファッション・テキスタイルを中心に、且つデザインの領域にとらわれない活動をしています。
皆川がミナ ペルホネンの前身となる「ミナ」を立ち上げたのは 1995 年。一過性の流行ではない普遍的な価値を持つ「特別な日常服」をコンセプトとし、日本各地の生地産地と深いコミュニケーションを重ねながらものづくりをつづけてきました。(中略)本展覧会では、多義的な意味をもつ「つづく」をキーワードに、ミナ ペルホネンの独自の理念や世界観を紹介するとともに、現代におけるものづくりの意味や、デザインの社会における役割を考察します。
一番最初の部屋は撮影可でした。美しくデザインされた様々な表情の布が壁に貼られています。
他にも何部屋か撮影可でした。
洋服の森。ここが一番楽しかった。
どの服も素敵なものばかりです。あれが良いこれが好き、あの人が着たところを見たい、生まれ変わったらこれが着たいと想像が膨らみます。
趣味とは違うけど、なぜか気になった服。
近づいたら、目があった。
これは着てみたいと思った服。
やっぱり、これも目があった(笑)
こういうのも好き。
気に入って一番長く見たのは新聞の挿画の部屋でした。日本経済新聞で川上弘美著の連載小説『森へ行きましょう』の挿画が並んでいました。あれくらいのサイズ感が私はとても好きで、いつまでも見ていたい気分になりました。
巻き貝を構造とするシェルハウス。建築家中村好文の設計。
「簡素で心地よい宿」のプロトタイプだという。
それほど混雑していなかったこともあり、一時間程度で見終わりました。
日本画と違って凝視するものが少なく、私にとっては気軽に見られる展示でした。
帰り、MOTの近くにあるスペシャルティコーヒー屋さんに行きました。ザクリームオブザクロップコーヒーさんです。
ピエール・マルコリーニの焼菓子と一緒にホンジュラスを。
大変居心地のよいカフェでした。
宮崎神宮:日向三代を巡る旅 その15
帰りの飛行機の時間が迫るわずかな時間で宮崎神宮へ向かいました。
宮崎神宮の鎮座地は神武天皇が東征以前に宮を営んだ場所とされる。主祭神を神日本磐余彦尊(神武天皇)をとし、配祀として神鸕鷀草葺不合尊と神玉依姫命の2柱を祀る。
以後神武天皇に対する崇敬から、歴代の領主により深く崇敬された。
宮崎県護国神社側から敷地に入り、宮崎神宮西神苑駐車場に車を止めて境内を歩く。
車祓所
玉砂利が敷き詰められた清浄な参道が伸びる。
参道脇に建つ50基の立灯籠は神武天皇の崩御2600年の記念事業の一環として2017年に設置されたもの。
竿までが石製、中台以上は木製の銅版切妻造り。火袋に十六菊紋がついている。この手は出雲大社でもよく見かけた。
三の鳥居
金属製の神明鳥居が立つ。
一風変わった石灯籠がある。
基台から竿部にかけての重厚さが面白い。宮崎市内の平和台公園にある平和の塔(八紘之基柱)にも通じる。こんな変わったのを作るのは、もしかすると。
宮崎神宮略記案内板
宮崎神宮略記
当神宮は神武天皇神日本磐余彦尊を主祭神とし、 相殿には鵜葺屋葺不合尊(御父君)と玉依姫命(御母君)が奉斉されている。 天皇は四十五歳の御時、天下統治に応しい地を求めて日向国を御出発、 数々の苦難の末に大和地方を平定され、第一代の天皇として即位された。後に皇子神八井耳命の御子(建磐龍命)により、 天皇の御神霊が当地(皇居高千穂宮の霊地)に鎮祭され今日に至っている。
古来より神武天皇宮域は神武天皇廟と称されて歴代領主の尊崇篤く、明治維新に際し神武創業の昔に復えるという事で、特に注目、重視された。明治十八年官幣大社に昇格、社名も同十一年に宮崎神社から宮崎宮と改称され、大正二年に現在の宮崎神宮となった。その間の明治三十一年、神武天皇御降誕大祭会(総裁侯爵二条基弘、会長伯爵島津忠亮、幹事長男爵高木兼寛)が発足し、社殿の造営・境内地拡張等の大工事が進められた。特に明治天皇には御内幣金を下賜あらせられ、これを契機に全国的規模の募金活動が展開された。 同四十年に竣工、遷座奉告祭が斎行され、更に同年十一月、嘉仁親王殿下(大正天皇)の御参拝を給わった。以後皇族方の御参拝が続いた。殊に昭和天皇には皇太子裕仁親王殿下の御時、大正九年を始めとして六度の御参拝を給わった。 又皇太后陛下には大正一二年、久邇宮良子女王陛下として御成婚御奉告を始めとして陛下と共に二度の御参拝を給わっている。
祓所
手水舎
参詣者休憩所
授与所
儀式殿
元は社務所として使われていたものだという。
儀式殿前の狛犬
遠吠えしているような阿形の表情がよい。吽形の頭がやけに平ら。元は角があったのかもしれない。
いよいよ正門を通る。
宮崎神宮社殿群は明治40年(1907)に造営。設計は日本建築史学の創始者、伊東忠太である。国の登録有形文化財として、神殿・幣殿・渡殿・神饌所・透間垣・拝所・正門・玉垣・石柵および徴古館が登録されている。左右対称の配置と復古的で端正な社殿形式に特徴がある。
本殿は方3間の切妻造妻入。前面に桁行4間の両下造の渡殿が接し、正面7間側面4間の幣殿に続く。幣殿の前面には桁行3間の向拝が付き、左右には渡廊を経て御料屋と神饌所が結合されている。御料屋と神饌所はそれぞれ妻を正面に向けた正面3間側面4間の切妻造。
正門
拝所の南方、参道正面に位置する。間口5.5mと規模の大きい四脚門。切妻造銅板葺。本柱・控柱とも円柱で、冠木や貫で固め、控柱上には舟肘木を置く。一軒疎垂木とし、豕叉首組、中備に束を建てる。菊紋の大きな金具を飾る板戸両開をたてる。簡明で重厚な門。
拝所
拝所の先は木製の玉垣で仕切られているためこの先には進めない。一般参拝者はここで詣でる。
幣殿の南方、正門との中程に位置する。桁行三間梁間三間、切妻造銅板葺。礎石上に円柱を建て、内法貫で固め、舟肘木を置き、桁や梁を支持。小壁を板壁とし、一軒疎垂木。四方吹放ちで、石敷、化粧屋根裏とし、各梁間に豕叉首を組む。大規模で、開放的な拝所。
幣殿
正式参拝の申し込みをすると、幣殿に入ることができる。
幣本殿の南に位置する、東西棟の切妻造銅板葺。桁行七間梁間四間、正面に三間向拝を付け、四周に組高欄付榑縁を巡らす。円柱で、舟肘木を置き、一軒繁垂木。中央三間に双折両開板戸、両端二間に蔀を装置。妻は豕叉首で、棟木筋にも豕叉首を組む独特の構法を示す。
神殿
神殿(本殿)がまったく見えなかったので Google Map で確認する。
境内の後方、船塚古墳を背に南面して建つ。切妻造妻入銅板葺で、千木と堅魚木を付ける。桁行三間梁間三間で高く床を張り、周囲に組高欄付の榑縁をまわす。正面中央に幣軸を構え両開戸をたて、他は横板壁。軒の深い緩やかな屋根をもち、安定感のある外観になる。
御料屋
木立に隠されて屋根の一部しか見えない。
幣殿の東方に、桁行五間単廊の渡廊で繋がる。桁行四間梁間三間、南北棟の切妻造銅板葺で、神饌所と同じ規模、形式になる。舟肘木で、妻は豕叉首組とし、軒は一軒疎垂木。平入の幣殿を中心に切妻を正面に見せる二棟を東西に配し、対称性の強い正面をつくる。
神饌所
こちらも、木立に隠されて屋根の一部しか見えない。
幣殿の西方に位置し、単廊の渡廊で繋がる。桁行四間梁間三間、南北棟の切妻造銅板葺。基壇上に円柱を建て、地覆や貫、内法長押で固め、柱上舟肘木。妻面は板壁で、平側に連子窓や妻戸を装置する。内部は一室で、北面に奥行の浅い神棚などを設ける。神饌所の好例。
大鳥居
宮崎神宮からの帰路、神宮参道と国道10号との合流地点に大鳥居があった。
レンタカーの返却時間が迫る。日向三代を巡る旅はこれにて終了。時間があれば皇宮神社や都農神社にも足を伸ばしたかった。またいつか機会があれば、行ってみたい。
江田神社:日向三代を巡る旅 その14
江田神社
江田神社は、黄泉国より帰還した伊耶那岐命が禊を行った場所と伝えられる神社で、御祭神は伊邪那岐尊と伊邪那美尊。『続日本後紀』の承和4年(837年)8月1日壬辰朔条に「日向国子湯郡子都濃神。妻神。宮埼郡江田神。諸県郡霧島岑神。並預官社」、『日本三代実録』天安2年10月22日己酉条(858)に「授日向国従五位上高智保神。都農神等従四位上。従五位上都万神。江田神。霧島神並従四位下。伊予国正六位上布都神従五位下」、『延喜式神名帳』には「宮崎郡一座江田神社」とあり、日向式内四社の一つに位置付けられている古社である。
一の鳥居
一対の石灯籠と石製の明神鳥居が立つ。
鳥居には松飾りがありました。
正月の準備のようです。もしや大賀玉の木
二の鳥居
参道途中に新しい石製の明神鳥居がある。扁額付き。
両脇に門松が飾られている。南天や葉牡丹が加わり、東京で見かけるものより華やかである。
由緒案内板
江田神社由緒記
社名 江田神社
御祭神 伊邪那岐尊 伊邪那美尊
御祭日 例大祭十一月十二日 祈年祭二月十七日 新嘗祭十一月二十三日 大祓祭六月三日 特殊神事茅ノ輪潜リ本神社ハ太古ノ御創建ニシテ其ノ創立ノ年代ハ詳カナラザルモ此ノ地一帯ハ古来所謂日向ノ橘ノ小戸阿波岐原トシテ伊邪那岐ノ大神禊祓ノ霊跡ト傳承セラレテ縁起最モ極メテ深キ社ナラム禊祓ノ際天照皇大神、素盞鳴尊ト住吉三神ノ神々ガ御誕生アラセラレタル霊域ノ地ト傳ヘ即チ上代ニ於ケル中ツ瀬ト稱セル御池本社ヲ去ルコト約五丁ノ東北ニ現在ス後、世人入江ヲ開墾シテ江田ト稱シ里人俗ニ當社ヲ産母様ト稱ヘテ今日ニ至ル
仁明天皇承和四年丁己八月官社ニ列セラレ文徳天皇仁壽元年辛未正月従四位下ヲ授ケラレ清和天皇貞観元年己酉十月従四位上ニ進メラレ其後丹融天皇天録元年二月迄ニ天変地妖兵革等ノ年母ニ敍位八回ニ及ビ正一位ニ昇階アリシト云フ醍醐天皇ノ延喜年間ニ於テ延喜式内社日向四座ノ一社トシテ神明帳ニ登載セラレ祈年新嘗ノ奉幣ヲ承ケ居リシガ後西院天皇寛文年間ニ神社ノ制度ニ変革ヲ来シ遂ニ一村落ノ産土神ト同様ノ取扱ヲ承ケルニ至レリ
明治維新ニ際シ明治六年五月二十五日ニ社格縣社ニ列サレ同四十年二月九日神饌幣帛料供進ヲ指定サレテ今日ニ至ル
拝殿
社殿は素木の権現造り。拝殿は銅板葺で、流れ向拝がある部分は妻入り切妻造り、その奥にある棟高がやや低い平入の入母屋造りと組み合わせて、棟を丁字に納めている。寺院建築に見られる撞木造りである。
鬼瓦の鳥衾は経の巻が三本。妻飾りに鏑懸魚が付き、虹梁や蟇股には彫刻が施されている。
木鼻は獏。
水引虹梁の蟇股には雲龍が彫られている。
本殿
一段高く基礎が作られた上に建つ。
本殿は銅板葺流造りで、外削ぎの千木に5本の鰹木がついている。
みそぎ池
市立の阿波岐原森林公園市民の森内、北駐車場近くにある御池(みそぎ池)は、黄泉国から帰ってきた伊邪那岐命が禊をした場所との伝承がある。
禊を行なった場所について、『古事記』では「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」、『日本書紀』では「筑紫日向小戸橘之檍原」と記されている。
是以、伊邪那伎大神詔吾者到於伊那志許米上志許米岐此九字以音穢國而在祁理。此二字以音。故、吾者爲御身之禊而、到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐此三字以音原而、禊祓也。
故、於投棄御杖所成神名、衝立船戸神。次於投棄御帶所成神名、道之長乳齒神。次於投棄御囊所成神名、時量師神。次於投棄御衣所成神名、和豆良比能宇斯能神。此神名以音。次於投棄御褌所成神名、道俣神。次於投棄御冠所成神名、飽咋之宇斯能神。自宇以下三字以音。次於投棄左御手之手纒所成神名、奧疎神。訓奧云於伎。下效此。訓疎云奢加留。下效此。次奧津那藝佐毘古神。自那以下五字以音。下效此。次奧津甲斐辨羅神。自甲以下四字以音。下效此。次於投棄右御手之手纒所成神名、邊疎神。次邊津那藝佐毘古神。次邊津甲斐辨羅神。
伊弉諾尊、既還、乃追悔之曰吾、前到於不須也凶目汚穢之處。故、當滌去吾身之濁穢。則往、至筑紫日向小戸橘之檍原而秡除焉、遂將盪滌身之所汚、乃興言曰上瀬是太疾、下瀬是太弱。便濯之於中瀬也、因以生神、號曰八十枉津日神。次將矯其枉而生神、號曰神直日神、次大直日神。又沈濯於海底、因以生神、號曰底津少童命、次底筒男命。又潛濯於潮中、因以生神、號曰表中津少童命、次中筒男命。又浮濯於潮上、因以生神、號曰表津少童命、次表筒男命。凡有九神矣。其底筒男命・中筒男命・表筒男命、是卽住吉大神矣。底津少童命・中津少童命・表津少童命、是阿曇連等所祭神矣。
阿波岐原は祓詞冒頭にも出てくる。
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等 諸々の禍事・罪・穢 有らむをば 祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと 恐み恐みも白す
御池案内板
御池(みぞぎ池)
古来よりこの地は筑紫日向橘小門之阿波岐原と呼ばれ、伊邪那岐大神が禊祓されたと伝えられています。我が国最古の歴史書である古事記には、伊邪那岐大神が禊祓をされ、天照大御神をはじめ多くの神々が誕生されたと記されています。
御池の側に自然石の碑がある。
御池(みそぎが池)
古来より、この池は竺紫日向橘小門之阿波岐原と呼ばれ、伊耶那岐大神が禊祓されたと伝えられています。我が国最古の歴史書である古事記には、伊耶那岐大神が禊祓をされ、天照大御神をはじめ多くの神々が誕生されたと記されています。
古事記 上巻是以伊耶那岐大神 到座竺紫日向 橘小門之阿波岐原而 禊祓也
於是洗左御目時所成神 名天照大御神 次洗右御目時所成神 名月讀命 次洗御鼻目時所成神 名建速須佐之男命
(現代文)
イザナキノオオカミは、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原においでになって、禊ぎ祓いをなさった。
さてそこで左の目をお洗いになると、アマテラスオオミカミという神がお生まれになりました。次に右の目をお洗いになると、ツクヨミノミコトという神がお生まれになりました。次に鼻をお洗いになると、タケハヤスサノオノミコトという神がお生まれになりました。
鵜戸神宮:日向三代を巡る旅 その13
- 鵜戸神宮
- 一の鳥居
- 二の鳥居
- 授与所
- 神犬石
- 神門
- 斎館と社務所
- 楼門
- 千鳥橋
- 手水舎
- 石灯籠
- 玉橋
- 霊石亀石と運玉
- 三の鳥居
- 拝殿
- 本殿
- 皇子神社
- 九柱神社
- お乳岩
- 産湯の跡
- お乳水
- 住吉神社・火産霊神社・福地神社
- 宝物殿
- 鵜戸稲荷神社
- 恵比須神社
- 吾平山陵
鵜戸神宮
鵜戸神宮は宮崎県内では高千穂峡に次いで観光客(年間約100万人)が多い観光地である。全国でも珍しい下り参道があり、日向灘に面した断崖の中腹にある岩窟に本殿が鎮座する。
日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊を主祭神とし、相殿に大日孁貴(天照大御神)、天忍穂耳尊、彦火瓊々杵尊、彦火々出見尊、神日本磐余彦尊を祀る。
創祀の年代は不明だが、古代から海洋信仰の聖地であったとされている。古くは仁王護国寺が別当寺院として管掌して来た。社伝によれば、仁王護国寺は、光喜坊快久が第一世別当となって以来九世までは天台宗、後三代は真言宗仁和寺門跡が別当を兼摂して以後真言宗の別当がつぎ、二十九世別当頼祐法印の時になって新義真言宗智山派に転じた。そのころから鵜戸山大権現は宇内三大権現の一つで、両部神道の大霊場として広く知られ、西の高野山とまで言われるようになった。明治の神仏分離で権現号を廃し、六観音を安置した本地堂はじめ十八坊を教えた堂坊は廃止毀却され、仁王門は焼却されて、鵜戸神社と改称した。
桓武天皇より「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」の勅号を賜ったとあるので、権化神が祀られるということは当然本地垂迹説が広まった後、つまり奈良時代後期以降の創立となる。しかも、当時は神社とは認識されていなかったのだろう。当然、延喜式に名前はない。
明治期までは近郷の新婚旅行で、花嫁が盛装して美しい尻掛を置いた馬の背に乗り、花婿が手網をとるシャンシャン馬道中があった。
『日向國鵜戸山畧圖』には速日峯、エボシ峠といった山名や海岸の観音石、扇石、不動石といった岩石名、当時参道に並んでいた寺院や観音堂、鐘楼などが詳しく描かれている。
雨上がりの青空の下、日南市から国道220号を北上して日南海岸をひた走る。
さすが南国宮崎。海の色が違う。
一の鳥居
鵜戸交差点を右折し岬に向かうところに朱色の明神鳥居が立っている。
笠木は黒く、島木は白い
この先の道路は狭く、大型車は通行禁止。対向車に気を配り、時には路肩に車を寄せてやり過ごしながら進むしかありません。大晦日でもひっきりなしに対向車が来るのだから元旦は一体どんな酷いことになるんだろう。
鵜戸岬灯台を過ぎ、下り坂を進んで第一駐車場へ。
二の鳥居
駐車場脇に朱色の明神鳥居がある。
笠木と根巻は黒、島木は白で社紋の十六菊が三つ入る。笠木には雨覆いが施されているが、それほど目立たない。
参道にはお土産屋が立ち並ぶ。
授与所
境内に入ってすぐに御朱印受付およびお守りの授与所がある。
稲荷神社、恵比須神社神符授与所とある。
境内にはお土産屋が多いが、それとは別に初詣に向けての出店も多く並んでいた。
神犬石
参道の途中、海側に締め縄が張られた岩がある。
八丁坂(本参道)から本殿を御守護するように見えることから神犬石と呼ばれている
神門
参道を進むと朱色の門がある。手前には正月に向けて変わった門松が飾られていた。
飫肥藩に由来する古式の門松で、クズマキかずらで束ねた節木が置かれ、高く立てられた細竹の間に縄が張ってある。「つるは広くしっかり根をはるように、縄は絆を強め笑顔絶えない生活を、また縄のワラは向かって右側(海側)より七本・五本・三本という縁起のいい数の順で下がっています」とのこと。その他、橙と楪で「代々子孫に譲る」、椎は「楽しい」「嬉しい」を意味する。
神門は三間一戸八脚門である。
戸口左右に随身(矢大臣)が置かれている。
左が赤い衣で口を閉じた右大臣、右は黒い衣で口を開けた老形の左大臣である。
斎館と社務所
左が斎館で装束や神饌がおいてある。右が社務所。
国指定名勝案内板
国指定名勝 鵜戸 平成29年10月13日指定
名勝鵜戸は、日向灘に突き出た岬で、古来より南九州各地から厚い信仰を受け、修験の場としても栄えてきた。また、日向神話の海幸山幸神話の舞台として、鵜戸神宮本殿が建つ洞穴(隆起海食洞)や亀石、お乳岩や速日峯陵(主祭神陵)、周辺の玉依姫陵伝承地(宮浦古墳)などが伝えられている。
名勝の中核をなす鵜戸神宮は、南九州を代表する神社である。鵜戸神宮の社伝には延暦23年(804)に社殿を再興したとあり、近世には飫肥藩主伊東氏の庇護のもと造替や改修が行われた。明治維新までは、鵜戸山もしくは鵜戸大権現と呼ばれ、境内の仁王護国寺を仁和寺が所管し、神門に至る八丁坂参道の両脇には18の寺坊が並んでいた。
宮崎市青島から日南市風田にかけての日南海岸には、宮崎層群(約1200万年前から150万年前までの間、深い海底で砂の層と泥の層が交互に堆積した層)のなかでも古い時代の地層が露出しており、この砂岩泥岩互層が波の浸食を受けて形成された波食棚や海食洞、ノッチ(岩が窪んだ地形)が随所に見られる。鵜戸崎の南面に見られる波食棚は、鵜戸千畳敷奇岩(鬼の洗濯板)と呼ばれ、県の天然記念物に指定されている。
古からの自然景観と神話を背景とした鵜戸の地は、今も多くの人々から厚い尊崇を受け、また、景勝地としても多くの人々を惹きつけており、古くからの旅行記や日記等にその様子が記されている。このような特徴的な地形及び地質によって形成された風致景観は、その観賞上の価値が高く評価されることから、平成29年10月13日、国名勝に指定された。
日南市教育委員会
楼門
参道をさらにすすむと、二階建ての楼門が見えてくる。
楼門は朱塗り銅板葺入母屋造り。
初層上層とも桁行三間の梁間二間。左右に袖塀がつく。
二階には、来年の干支であるネズミと「鎮慶重暉」の文字が入った絵馬が飾られていた。
この二階部分の左右には門守社がそれぞれ祀られているという。
楼門の前に古い石灯籠がある。
火袋に一六菊紋、竿には「御武運長久」、基礎に「紙開発願主 大阪住油屋善兵衛」の文字が見える。
市指定建造物案内板
市指定 建造物
鵜戸山石灯籠のうち紙開発石灯籠一対飫肥藩は、寛政十二年(一八〇〇)に産業開発の一政策として楮栽培および紙の開発を計画した。そこで、大阪の両替商油屋善兵衛から資金の提供を受け、飫肥藩内で生産された和紙を大阪で善兵衛が飫肥藩の蔵元として販売し、事業は順調に拡大された。
紙開発灯籠はこの事業の成功を祈念して、天保三年(一八三二)に善兵衛が鵜戸六所権現(鵜戸神宮)に奉納したものである。灯籠には油屋一族とともに飫肥藩の大阪蔵屋敷の役人達の名前も刻まれている。昭和四十五年十一月三日 指定
日南市教育委員会
楼門を脇から参道の先を覗く。
楼門や柵に塗られた鉛丹、山の緑、空と海の青が見事なコントラストを作る。
鵜戸神宮御由緒・おちち岩案内板
鵜戸神宮御由緒
主祭神 日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊
当宮のご創建は、第十代崇神天皇の御代と伝えられ その後第五十代桓武天皇の延暦元年には、天台宗の僧光喜坊快久が勅令によって当山初代別当となり、神殿を再興し、同時に寺院を建立して、勅号を「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」と賜わった。
また宗派が真言宗に移ったこともあり、洞内本宮の外本堂には六観音を安置し、一時は「西の高野」とうたわれ、西都神道の一大道場として、盛観を極めていた。
そして明治維新とともに、権現号、寺院を廃し、後に官幣大社鵜戸神宮 にご昇格された。
母君の豊玉姫が御子の育児のため、両乳房をご神窟にくっつけて行かれたと伝える「おちちいわ」は、いまもなお絶え間なく玉のような岩しみずを滴らせて、安産、育児を願う人々の信仰の拠り所となっている。又、霊石亀岩の背中に運玉を投げ見事にはいると願い事が叶うという伝えがある。
このほか、 念流・陰流の剣法発祥の地として、厄除・漁業・航海の守護神としての信仰は愈々篤く、今後とも神秘な霊気によって人々の魂を高めて行くであろう。
霊石「おちち岩」
当神宮ご祭神の母君「豊玉姫命」が、洞窟に造った未完成の産屋でご出産の際、父君「彦穂穂出見尊」がのぞいてしまいました。
そのため母君は故郷の海の国へ帰らなければならず、その際お生まれになったご祭神への愛情と健やかな成長を願い、ご自分の両乳房を洞窟内にくっつけていかれたといわれています。現在も絶えず石清水がしたたり落ちる神秘の岩。洞窟内の、ご本殿裏に回るとご覧いただけます。
参道から岩が作る白波を眺める。
千鳥橋
この先、参道がならだかに下っていく。
鵜戸神宮は、下り参道の神社としても有名である。
手水舎
石灯籠
灯籠十基を慶安元年八月、飫肥藩主伊東祐久公が寄贈した。
神橋案内板
神橋(玉橋・霊橋・鵜戸の反橋)
この神橋は、神仏習合時代には金剛界三十七尊の御名が書かれた三十七枚の板が配してありました。
この神橋を渡ると御本殿に至る急な石段です。
これより先は、古来より尊い御神域、霊場として深い信仰を集めてまいりました。
かつては、橋の手前から履物を脱ぎ、跣でお参りをしていました。
今はその習慣はなくなりましたが、その心は生きています。
お参りの方々は御神慮にかない、心は清く正しく明き人として祝福され、御加護を受けられるといわれています。ようこそおいで下さいました。
この神橋と石段、どうぞ足元に注意して下りられごゆっくり御参拝下さい
玉橋
狭い朱色の太鼓橋。橋の左脇から橋下をくぐって、海を眺めることができる。
玉橋の反橋は三十六枚あり、これが金剛界三十七尊のうち三十六尊を表し、橋を渡る本人が一尊となって三十七尊の仏を表すという言い伝えがある。
玉橋の上から断崖と海食洞が見えた。
海蝕した崖にはコンクリーションがたくさん見える。
急な階段を降る。
階段途中から海を見る。
この辺一帯は砂岩であるため、海蝕がすさまじい。
階段下から見上げる。
当然、帰りはこれを登るわけで。
霊石亀石と運玉
玉石から続く階段の下で、多くの人が眼下の岩に向かって玉を投げる。
運玉を買う。5個で100円。
男は左手で、女は右手で投げる。
穴に入らずとも、岩に乗れば願いが叶うという。
穴に入った運玉は定期的に回収されて、天日で干される。
「幸の玉御守」として授与所で扱いがある。
目の前の岩を見て、ふと宮崎市内の平和台公園にある平和の塔(八紘之基柱)を思い出した。
三の鳥居
洞窟の入口には明神鳥居が立っている。
笠木と根巻は黒、島木は白で社紋の十六菊が三つ入る。笠木には銅板の雨覆いが施されている。
県指定建造物案内板
県指定建造物 鵜戸神宮 本殿 宮崎県教育委員会(平成7年3月23日指定)
鵜戸神宮本殿は、鵜戸崎の日向灘に面した岩窟内に建てられている。
本殿創建の年代は不詳であるが、社伝によると崇神天皇の代に創建し、桓武天皇の勅命により、光喜坊快久が神殿及び仁王護国寺を再興した、と伝えている。中世には、「鵜戸六所大権現」、江戸時代以降は「鵜戸山大権現」として、日向国内外から厚い信仰を得ていた。
現在の本殿は、正徳元年(1711)に飫肥藩五代藩主伊藤祐実が改築したものを明治23年(1890)に大修理を行い、さらに昭和42年(1967)に修理したものである。平成9年度(1997)には屋根や内装等の修理が行われた。このように幾度の改修を実施したものの、岩窟内に見事に収めた権現造風の八棟造は、往時のままであり、その文化的価値は高い。説明板管理者/道なん市教育委員会 電話0987-31-1145
拝殿
洞窟の屋根ぎりぎりに朱塗りの八棟造り(権現造り)の社殿が建っている。
拝殿は銅板葺入母屋造りで千鳥破風と唐破風がつく。
社殿は極彩色の彫刻で飾られている。
木鼻の龍が可愛らしい。
他の獏や獅子もよい味を出している。
天井画は龍である。
内部は様々な彫刻があって実に賑やか。
本殿
社殿の横に回り込み、側面から幣殿と本殿を見る。
洞窟の高さぎりぎりに屋根がある。よくもまあこんな所に、これほどまでに立派な社殿を作ったなと感心する。
鵜戸神宮本殿の案内板にあった平面図とは違いがある。最後方の切妻屋根部分は後に増築されたものかもしれない。
参考までに、別の日の社殿側面。
社殿の裏に回る。
銅板葺切妻造りの部分が増築部である。
皇子神社
本殿左側に鎮座する。小さいながらも立派な社殿。朱塗り銅板葺切妻造り一間、千鳥破風に唐破風の向拝を供える。
神武天皇の長兄、彦五瀬命(ひこいつせのみこと)を祀る。
九柱神社
朱塗り9間長屋造りで銅板葺切妻屋根を持つ。
伊耶那岐命が阿波岐原で禊をした時に生まれた九柱(神直日神、大直日神、伊豆能売神、底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神、底筒之男神、中筒之男神、上筒之男神)を祀る
お乳岩
洞窟の天井から延々と水が滴る。
お乳岩
産湯の跡
主祭神鵜草葺不合命が生まれた産屋と伝わる。
賽銭箱の下に洞がある。
お乳水
この水を使って、当地名物のお乳飴が作られる。
住吉神社・火産霊神社・福地神社
チタン板張りの屋根が珍しい朱塗り三社流れ造り。塩害が激しい環境であることから、2019年1月に耐腐食に優れる新日鉄住金社製チタン材に葺き替えられた。今後神宮本殿でも同様の改修が検討されているという。
御祭神は、住吉社が底筒男神、中筒男神、上筒男神、火産霊社が火産霊、副智社が仁徳天皇を祀る。
宝物殿
左に神武天皇御降誕傅説地の碑、右に古狛犬。
碑の前にはコンクリーションが置いてあった。
古狛犬は、江戸時代後期文政八年(1828年)の土砂崩れにより海中に沈んだものを引き上げて修復したもの。
狛犬の傷みが激しい。
鵜戸稲荷神社
階段に朱塗りの稲荷鳥居が並んでいる。
階段下の狛犬。
阿型は口の中に玉があり、吽型は前足で玉を抑えている。
階段最上段に笠木と根巻が黒い明神鳥居がある。
鵜戸稲荷神社の玉垣には棟門が付いている。
四本の支柱がある。
社には狛狐が飾られていた。
恵比須神社
吾平山陵
参道脇、楼門の近くにあった吾平山上陵案内板。
吾平山上陵
鵜戸陵墓参考地
本宮御主祭神日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊を葬め奉ると伝う
此處より仰ぐ神域の最高地速日峰の頂に在り
此處より約三百五十米自然林の中青苔を踏んで登る
宮内庁書陵部の管轄で陵守部が置かれている
鵜戸稲荷神社の側にある白木の神明鳥居が吾平山陵への登山口である。
奥にスズメバチにご注意下さいの看板あり。夏場は要注意です。
吾平山御稜・波切神社案内図
ここから吾平山稜まで375mと書いてあったので、軽い気持ちで階段を登り始める。
途中までは比較的楽な階段だったが、途中からは角石を渡る方が辛そうな山道になる。
前日が雨だったので苔むした石段は滑るし土はぬかるんでいる。山向きの格好でもないし登山向きの靴でもなかったので、後悔は早かった。
飛び石の段差がとにかく大きい。木の根の間を通った方が楽なため、靴は既に泥まみれ。
ロングスカートの裾が汚れそうなので、たくし上げて登らないといけないし、コートも次第に重くなる。ちなみに日常的に楽に10キロ走る体力があるんだが。
うんざりしてきた所で、ようやく山頂らしき光がみえた。
ゴールが見えたので、あとは気合で登る。
ようやく到着。登山口からの所要時間は12分でした。
鵜戸陵墓参考地は、鵜戸神宮の御祭神鵜草葺不合命の陵墓と伝えられている。
宮内庁による注意書き。
宮内庁御陵墓参考地となっているのは鹿児島県吾平町の吾平山陵が治定されたため。明治28年に鵜戸神宮の陵墓は伝説地と指定された。
玉垣で囲われているのみ。鳥居はない。
前方後円墳だという説もあるが、自然の山にしか見えない。
前方後円墳だとしたら3、4世紀のものになるので、ますます時代が合わないような。
帰路はさすがに息は切れないものの、濡れた急斜面が滑りやすく、いつ尻もちをついてもおかしくない状況で緊張しました。この後、とても波切神社に向かう気力はありませんでした。
靴がひどく泥まみれで、それが一番のダメージでした。
吾平山上陵:日向三代を巡る旅 その12
- フェリーなんきゅう
- 吾平山上陵
フェリーなんきゅう
薩摩半島の最南端の指宿市から大隅半島への移動にはフェリーを使うことにした。
吾平山上陵へのルートは、指宿市山川港と肝属郡南大隅町を結ぶフェリーなんきゅうを使うのが理想(おおよその所要時間:2時間10分)だが、年末は予約を受け付けていなかった。フェリーなんきゅうの窓口に電話した時に「年末はとても混雑する」、受付が先着順なので「けっこう前から待たないといけない」とも言われ、どうやらお宿の朝ご飯を食べている余裕はないもよう。フェリーなんきゅうに乗れなかった場合は、鹿児島市まで北上して桜島フェリーを利用し、桜島経由で移動することにした(おおよその所要時間:3時間16分)。つまり、車を走らせる1時間か、待合室で待つ1時間かの違い。
山川港8時発の1便に乗るため、お宿を早朝に出て山川港に到着したのが出港1時間前の7時。誰もいない。
圧倒的に早すぎました。東京の混雑と同じに考えてはいけません(笑)
外に出て、停泊中のフェリーなんきゅうを眺める。
乗用車だけなら15台ほど乗るそうですが、大型車が入るとぐっと少なくなるとか。
7時20分に受付が始まりました。
7時30分、3台目でフェリーに乗り込みます。
最終的に1台取り残されての出港となりました。
フェリー内の客室。この広さの部屋が二つあり、かなり余裕があります。
遠くに大隅半島が見える。
フェリー所要時間は約50分。
大隅半島側の根占港に無事到着しました。
ここから吾平山上陵までは車で約40分です。かなりショートカットした気分。
龍宮神社:日向三代を巡る旅 その11
長崎鼻に向かう。
お土産屋が立ち並ぶ道、長崎鼻パーキングガーデン。
途中に鹿児島弁検定の看板。
商店街が切れた所に龍宮神社がある。
神社を横目に、まずは灯台へ向かう。
指宿まるごろ博物館①長崎鼻周辺案内板
続きを読む長崎鼻の竜宮伝説
古事記にある「山幸彦と海幸彦」や「浦島太郎」などの竜宮や乙姫にまつわる伝説は、全国各地にありますが、ここ長崎鼻は、竜宮伝説の発祥の地として知られています。長崎鼻周辺に伝わる伝説によると山幸彦(浦島太郎のモデル)は、竜宮城で豊玉姫(乙姫)と出会い結ばれ、3年間を過ごしました。その後、山幸彦はすでに身ごもっていた豊玉姫を連れ、玉手箱(枚聞神社に奉納)と千年古酒をいれた2個の大甕を乗せ、帰ってきました。
たどり着いたところは山川郷竹山の「無瀬の浜」の海岸。この沖合にあり、龍宮門とも伝わる奇形の島「俣川洲」で豊玉姫はお子をお産みになったと伝えられ、その子は「鵜草葺不合命(神武天皇の父)」と名づけられたと云われています。
また、一説にこの話は「竜宮城は琉球城であり…」とのくだりがあることから、大和と琉球の交易を示す話とも云われています。
玉乃井:日向三代を巡る旅 その10
池田湖から県道28号(岩本開聞線)を南下し、枚聞神社に向かう途中、田園風景が広がる中にぽつんと木立が生い茂る場所があった。
浦島太郎伝説の元になった山幸彦海幸彦伝承の地だという。
江戸時代後期に薩摩藩によって編纂された『三国名勝図会』の24巻に「玉井」として描かれている。
本文には 『日本書紀』に出てくる豊玉姫が朝夕使っていた井戸と伝え、「是太古は此地江海にて、竜宮界なりし故、此傳へあるなり、又昔日は頴娃山玉井寺龍寶坊といへる寺院ありしと云々」と書かれている。さらに、玉の井の地と同じく昔は海中だったとされる聟入谷(むこいりだに)があり、そこが山幸彦が豊玉姫を娶った場所とされている。
木立の間に小道があり、脇に標柱と案内板がある。
続きを読む瓊の井