常温常湿希望

温度20℃湿度50%が理想です。

吾平山上陵:日向三代を巡る旅 その12

  • フェリーなんきゅう
  • 吾平山上陵

フェリーなんきゅう

薩摩半島の最南端の指宿市から大隅半島への移動にはフェリーを使うことにした。
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吾平山上陵へのルートは、指宿市山川港と肝属郡南大隅町を結ぶフェリーなんきゅうを使うのが理想(おおよその所要時間:2時間10分)だが、年末は予約を受け付けていなかった。フェリーなんきゅうの窓口に電話した時に「年末はとても混雑する」、受付が先着順なので「けっこう前から待たないといけない」とも言われ、どうやらお宿の朝ご飯を食べている余裕はないもよう。フェリーなんきゅうに乗れなかった場合は、鹿児島市まで北上して桜島フェリーを利用し、桜島経由で移動することにした(おおよその所要時間:3時間16分)。つまり、車を走らせる1時間か、待合室で待つ1時間かの違い。

 

山川港8時発の1便に乗るため、お宿を早朝に出て山川港に到着したのが出港1時間前の7時。誰もいない。
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圧倒的に早すぎました。東京の混雑と同じに考えてはいけません(笑)

外に出て、停泊中のフェリーなんきゅうを眺める。
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乗用車だけなら15台ほど乗るそうですが、大型車が入るとぐっと少なくなるとか。

7時20分に受付が始まりました。
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7時30分、3台目でフェリーに乗り込みます。
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最終的に1台取り残されての出港となりました。

フェリー内の客室。この広さの部屋が二つあり、かなり余裕があります。
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遠くに大隅半島が見える。
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フェリー所要時間は約50分。

大隅半島側の根占港に無事到着しました。
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ここから吾平山上陵までは車で約40分です。かなりショートカットした気分。

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龍宮神社:日向三代を巡る旅 その11

長崎鼻に向かう。 
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お土産屋が立ち並ぶ道、長崎鼻パーキングガーデン。

途中に鹿児島弁検定の看板。
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商店街が切れた所に龍宮神社がある。
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神社を横目に、まずは灯台へ向かう。

 

指宿まるごろ博物館①長崎鼻周辺案内板
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長崎鼻の竜宮伝説

古事記にある「山幸彦と海幸彦」や「浦島太郎」などの竜宮や乙姫にまつわる伝説は、全国各地にありますが、ここ長崎鼻は、竜宮伝説の発祥の地として知られています。長崎鼻周辺に伝わる伝説によると山幸彦(浦島太郎のモデル)は、竜宮城で豊玉姫(乙姫)と出会い結ばれ、3年間を過ごしました。その後、山幸彦はすでに身ごもっていた豊玉姫を連れ、玉手箱(枚聞神社に奉納)と千年古酒をいれた2個の大甕を乗せ、帰ってきました。
たどり着いたところは山川郷竹山の「無瀬の浜」の海岸。この沖合にあり、龍宮門とも伝わる奇形の島「俣川洲」で豊玉姫はお子をお産みになったと伝えられ、その子は「鵜草葺不合命(神武天皇の父)」と名づけられたと云われています。
また、一説にこの話は「竜宮城は琉球城であり…」とのくだりがあることから、大和と琉球の交易を示す話とも云われています。

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玉乃井:日向三代を巡る旅 その10

池田湖から県道28号(岩本開聞線)を南下し、枚聞神社に向かう途中、田園風景が広がる中にぽつんと木立が生い茂る場所があった。
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浦島太郎伝説の元になった山幸彦海幸彦伝承の地だという。

江戸時代後期に薩摩藩によって編纂された『三国名勝図会』の24巻に「玉井」として描かれている。
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本文には 『日本書紀』に出てくる豊玉姫が朝夕使っていた井戸と伝え、「是太古は此地江海にて、竜宮界なりし故、此傳へあるなり、又昔日は頴娃山玉井寺龍寶坊といへる寺院ありしと云々」と書かれている。さらに、玉の井の地と同じく昔は海中だったとされる聟入谷(むこいりだに)があり、そこが山幸彦が豊玉姫を娶った場所とされている。

 木立の間に小道があり、脇に標柱と案内板がある。f:id:Melonpankuma:20200114214235j:plain

瓊の井

玉の井は神代の昔、豊玉姫が朝な夕なに使っていたのが、この玉の井で、日本最古の井戸として伝えられ有名なものであります

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枚聞神社:日向三代を巡る旅 その9

開聞岳

薩摩川内市から薩摩半島を南下して指宿市へ。年末だというのに菜の花が咲き誇る池田湖。さすが亜熱帯気候。
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遠くには薩摩富士とも呼ばれる開聞岳が見える。その昔、麓の枚聞神社に因んでひらきき岳と呼ばれ、神名備信仰があった。

 

鎌倉時代式内社 枚聞神社と新田神社とで薩摩国一宮相論が起こったことから薩摩国には一之宮が二つ存在する。『延喜式神名帳』に記される式内社 薩摩国一宮 枚聞神社(ひらききじんじゃ)は、当初開聞岳南麓に鎮座したが貞観16年(874年)の噴火で揖宿神社に避難し、その後北麓の現在の地に遷座した。

 

『三国名勝図会』による枚聞神社

枚聞神社は、江戸時代後期に薩摩藩によって編纂された『三国名勝図会』の23巻に「開聞神社」として描かれている。
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『三国名勝図会』本文には、主祭神国常立尊天照大神猿田彦大神で、配祀神として八座、天忍穂耳尊天穂日命天津彦根命、活津彦根命、熊野大隅日命、田心姫命湍津姫命市杵島姫命と、五男三女神を祀って総名を開聞九社と称すと記している。

さらに、枚聞神社の歳神は古くから諸説ありとして『延喜式神名帳』には「猿田彦命云々」と始まり、『神社啓蒙一宮篇』に綿積神社、『神社便覧』に和多津美神社、『神代巻塩土伝』に「枚聞神和多津美神傅云祭鹽土老翁」、『撰集薩隅日神社考』二書に「猿田彦太神又曰西宮天智天皇幷后」、『開聞古傳』に「開聞社、豊玉彦命豊玉彦妻神、鹽土老翁、又豊玉姫を祀る」等々と史料を丁寧に並べ、『日本書紀』の山彦海彦に触れ、別に天智天皇の開聞御臨幸と大宮姫の伝説を「虚妄無稽にして、明證なく、牽強附會にして、信用すべからず」とばっさり切り捨てる。

最終的に「古説の如き當社祭神は、和多津美神を本とし、鹽土老翁とし、猿田彦命とし、出見尊、豊玉姫とす、郡本一宮の如き、中宮猿田彦大神豊玉彦命、日月神、鹽土老翁、玉依姫東宮出見尊、豊玉姫、西宮大己貴命天智天皇の九體とす。此西宮を除て外は、皆出見尊海宮遊行に係る諸神なり」とまとめる。

枚聞神社御祭神を結論してなお書き足らなかったのか、24巻に続いて天智天皇の開聞御臨幸と大宮姫の伝説が贋説であることを相当な頁を以て述べ、新田神社とで薩摩国一宮相論が起こった際に神格を高めるために持ち出されたのではないかと論じている。

 

『三国名勝図会』が読めば読むほど面白すぎて、なかなか訪問記に入れない。

一の鳥居

 県道28号、枚聞神社前交差点脇に明神鳥居がある。
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額束に社紋の十六菊花紋が入っている。鳥居の奥に広い駐車場があるが、この日は正月の出店が立ち並んでいた。

鳥居の両脇に切妻造三間の建物がある。
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長庁でもないし回廊でもない。随身像か何か置くつもりだったか。

二之鳥居の両脇に大きな楠木がある。
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左手前に手水舎、右に車祓所がある。

手水舎

銅板葺切妻造四方転び開放ち。
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中央に天然石の手水鉢がある。

枚聞神社及び付近案内
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枚聞神社及び付近案内

鎮座地 鹿児島県指宿郡開聞町十町

御祭神 枚聞神一座 神社由緒記に大日孁貴命(天照大御神)を正祀とし他に皇祖神を併せ祀るとある。

御沿革 御鎮座年代を詳らかにせずとも雖も社伝には遠く神代の創祀なりと云う。既でに貞観二年薩摩国従五位下開聞神加従四位と三代実録に載せられているのを始め延喜式には薩摩国枚聞神社とある。
古来薩摩国一の宮、南薩地方一帯の総氏神として代々朝廷の尊崇厚く度々奉幣あり、殊に藩主島津家代々の崇敬絶大にして歴代藩主の修理、改造、再建等十余度に及び地方開拓の祖神として、又特に厄除、開運、交通安全、航海安全、漁業守護神として琉球国を初め地方民の崇敬篤に厚く明治4年国幣小社に列格せられた古社である。

御例祭 十月十五日

宝物 国指定重要文化財「松梅蒔絵櫛笥」外数十点あり、「最古の大酒甕」拝観可

付近名勝

開聞岳 標高九百三十四米、二重式火山 頂上に当社末社御嶽神社鎮座
玉乃井 日本最古の井戸、龍女豊玉姫命水汲みの井戸と云う。
聟入谷 彦火火出見命豊玉姫命のご結婚の跡と云う。
池田湖 周囲約二十キロ、九州最大の淡水湖

   寄贈 開聞町 山下石油 山下昇
      福岡市(株)山水製作所 山下良夫

 

肝心の御祭神についてさえも言葉を濁した書き方なのが気になる。なお、鹿児島県神社庁のサイトの枚聞神社のページには大日孁貴命と五男三女神が記されている。山幸海幸に絡む和多津美神は除かれた形だ。

御神木

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枚聞神社のクスノキ案内板
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枚聞神社のクスノキ

科名 クスノキ科
樹齢 800年
幹周り 7.9~9.5m
樹高 18.0~21.0m

 「枚聞神社由緒記」によりますと、神社は開聞岳の北麓に面して鎮座し境内地は約7000坪で、その中には千数百年を経た老樹が数多くあります。枝が鬱蒼と茂り天高くそびえている様は、このお社が由緒深い神社であることを物語っています。
 神社の祭神は天照大御神を正祀として他の皇祖神八柱神を併せ祀っており、 特に交通安全・航海安全・漁業守護の神として船人達から厚く信仰されてきました。 古くは、琉球王が枚聞神社に対して信仰が厚く、入貢の都度、神徳讃仰の文字を表す扁額を奉納したとのことで、現在その当時の扁額7枚が宝物殿に飾られています。

   調査 平成22年2月 特定非営利活動法人 縄文の森をつくろう会

   南薩地域振興局

二之鳥居

門杜社に挟まれて両部鳥居が立つ。
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二之鳥居をくぐると社殿、その奥に開聞岳の山頂が見える。
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多くの神社と異なり、枚聞神社の社殿は北に向いている。なお、開聞岳山頂には開聞神社の奥宮御岳神社がある。

参道両脇に手水鉢。正面に勅使殿、その左右に東西長庁がある。
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左が東長庁で神符守札所、御祈願受付、右が西長庁でおみくじ所になっている。

県指定有形文化財案内板
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県指定有形文化財

枚聞神社本殿

県指定年月日 平成二年三月二十三日
所有者 枚聞神社
種類 建造物

枚聞神社の社殿は、総漆塗極彩色の鹿児島地方独特の建物で、正面に唐破風の向拝のついた勅使殿、その奥に拝殿幣殿、本殿と連なり、本殿入口には、みごとな雲龍の彫刻柱がある。また、勅使殿の両側に東長庁とに西長庁が配置されている。

   指宿市教育委員会

勅使殿

黒縁朱塗り銅板葺入母屋造妻入で唐破風向拝がついている。
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鬼瓦や破風下の蟇股には社紋の十六菊紋が付いているが、唐破風の妻飾りに三巴紋によく似た紋が見える。

勅使門は御簾が巻き上げられて、内部がよく見えた。
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格天井で、天井絵が描かれている。

勅使殿と長庁の間を通って拝殿に回る。
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拝殿

拝殿は朱塗り、銅板葺入母屋造妻入で縋破風向拝がついている。
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勅使殿と比べて装飾が少ないため、丸桁や組物の彩色が目立つ。束帯の平緒のよう。

本殿

拝殿の屋根の奥にわずかに本殿屋根が見える。f:id:Melonpankuma:20200114214554j:plain

屋根には外削ぎの千木に5本の鰹木がついている。
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本殿は1786年に再建されたもので、方三間、銅板葺入母屋造妻入で、一間の縋破風向拝がついているという。

宝物殿

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入ってすぐに料金箱があるので入館料100円を入れる。

国指定重要文化財案内板
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国指定重要文化財
松梅蒔絵櫛笥付属品並目録共一合

国指定年月日 昭和二年四月二十五日
所有者 枚聞神社
種類 美術工芸品

松梅の蒔絵で飾られた昔の女性の化粧箱である。作者及び伝来は詳らかでないが、古くから本殿に納められ、「玉手箱」あるいは「あけずの箱」「玉櫛笥」等とも呼ばれ、大事に保管されてきた。
付属品の内容は、小箱十一と、小壺一、御櫛三、たとう紙四、角鈎二、鬢板一、金銀散らし箔紙一、綿の袋一、服紗巻筆三、御もとゆい二、御まゆつくり三、鏡二、合計二十三個の化粧道具が入っている
 この化粧箱の細別目録に「大永三年」(西暦一五二三年)ちかかれているので、室町時代の作品で、高貴な女性の持ち物と推察される。わが国の風俗史研究上重要な資料となるものである。

   指宿市教育委員会

《◎松梅蒔絵櫛笥付属品並目録共 1合 室町時代16世紀 鹿児島県・枚聞神社》
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この地に伝わる海幸山幸神話に関連付けて「竜宮の手箱」と伝えられている。

開けてはならない玉手箱の中身。
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蒔絵も美しく付属品も一揃い残る大変素晴らしい物ですが、宝物館の薄暗い照明の中ではその輝きが幾分損なわれて見えるのが惜しかった。

可愛山稜:日向三代を巡る旅 その8

可愛山陵(えのみささぎ)は天津日高彦火瓊瓊杵尊の陵。高屋山上陵、吾平山上陵とともに神代三山陵の一つである。

瓊瓊杵尊の陵は、『日本書紀」に「筑紫日向可愛山之山陵」とあり、明治政府により1874年(明治7年)、新田神社(現・鹿児島県薩摩川内市宮内町)境内の神亀山が治定された。

 

昭和11年出版の『川内地方を中心とせる郷土史と伝説』に可愛山の名の由来が書かれている。

可愛山と称するは川内川にちなんでの名である。即ち可愛山は借字で『江の山』と書くべきである。川内川が当山の川上から二つに分れ一つは今の川筋で他は可愛山の後を巡りて再び合流し可愛山は其昔、中島であったと言われている。其の入江の水を引いて神殿が出来たので新田の地名が起り、水道を水引と言って之も地名(水引村)となった。可愛山は江の山の義、江は大川を指し(難波江、佳江、高江などの如し)神亀山は山の形状から名づけたのである。

江戸時代後期の安政元年(1854年)、津久井清影著の陵墓集『陵墓一隅抄』の付図『聖蹟図誌』に「薩摩国高城郡水引郷宮内村内瓊々杵命之埃之山稜之圖」として描かれている。
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江戸時代後期に薩摩藩によって編纂された『三国名勝図会』の13巻に「神亀山」が描かれている。
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『三国名勝図会』の14巻には「可愛山稜」が新田神社から谷を挟んで戌亥(西北)の方角に百二十歩の場所にあるとして描かれている。
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この絵では、左の端陵が木花咲耶姫の陵墓、中陵を可愛山陵としている。

新田神社の社殿を左に向かい社務所の前を通って進むと可愛山稜への看板がある。
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猫もいる。

さらに進んで石段を上がる。この階段脇にも老木の楠があった。
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可愛山稜

雑木が茂っている。
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陵は玉垣で囲われ、その内側にある階段の上に石製の神明鳥居と瑞垣が設けられている。

宮内庁による注意書き
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新田神社の賑わいに比べて、大変静かでした。

新田神社:日向三代を巡る旅 その7

  • 一の鳥居
  • 二之鳥居
  • 神橋(降来橋)
  • 門守神社
  • がらっぱ大明神
  • 新田神社旧社殿礎石
  • 末社三社
  • 大楠
  •  子だき狛犬
  • 勅使殿 
  • 手水舎
  • 東長庁
  • 西回廊
  • 東回廊
  • 本殿
  • 社務所

 

鎌倉時代式内社枚聞神社と新田神社とで薩摩国一宮相論が起こったことから、薩摩国には一之宮が二つ存在する。薩摩国一之宮 新田神社(にったじんじゃ)薩摩川内市街地にある神亀山(しんきさん 高さ70m)の山頂にあって瓊瓊杵尊を祀る。川内八幡とも呼ばれる。

 

江戸時代後期に薩摩藩によって編纂された『三国名勝図会』の13巻に「八幡新田宮」として描かれている。平安時代中期に起こった承平天慶の乱を機に、国家鎮護を祈願して石清水八幡宮から勧請されて八幡宮を名乗るようになった。

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新田神社が可愛山稜との関係を主張し始めたのは鎌倉時代に遡る。新田神社は最初神亀山の中腹にあったが平安時代末期に焼失し、後に山頂に遷座した。当時再建の滞りがある中で、宗教的権威を強める目的で可愛山稜との結びつきを強めたと思われる。これにより、八幡宮本来の祭神である応神・仲哀天皇と神宮皇后に加えて瓊瓊杵尊を合祀したと思われる。さらに神格を強調するためか、鎌倉時代中期には八幡宮発祥の地であることを主張し、蒙古来襲後に展開した一宮相論の結果、薩摩国一宮を称し始めた。

 

川内川は南九州最大の河川で、熊本県最南端の白髮岳南麓から宮崎県を経由し薩摩川内市に至る。
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一の鳥居

川内川の辺りから新田神社の参道が伸びる。
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瓦葺きの雨覆いがついた両部鳥居である。雨覆いと笠木の反増がやけに大きく、まるでバッファローの角のよう。

二之鳥居

桜並木の参道を300メートルほど進むと道路を挟んで二之鳥居がある。
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一の鳥居と同じく、これも瓦葺きの雨覆いがついた両部鳥居。

神橋(降来橋)

二之鳥居をくぐるとすぐに銀杏木川に架かる太鼓橋「新降来橋」がある。
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新降来橋に並行して車道用の宮前橋が架かる。
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橋を渡って振り返る。石橋のアーチが美しい。
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写っているのは新降来橋で、上の『三国名勝図会』の絵に描かれている降来橋は、写真手前で見切れている。

降来橋と擬宝珠の案内板
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薩摩川内市指定文化財

降来橋と擬宝珠
昭和61年3月26日指定
管理者 新田神社

降来橋は、明治二十五年十一月に架け替えられた、長さ八メートル、幅五メートルほどの石造太鼓橋です。
 この橋の由来は古く、昔はこの場所に忍穂川が流れており、そこに架けられていました。三國名勝圖會によると、正応三年(一二九〇)新田八幡宮の降来橋において舞楽が催され、多くの見物人が訪れたと記録されています。
慶長七年(一六〇二)島津義弘が、神社の神殿を修復した際、この降来橋の欄干んい刻銘入りの青銅製擬宝珠八個が取り付けられました。現在は外され、宝物殿に大切に保管されています。
川内川から神社までまっすぐ伸びる八丁馬場と呼ばれた参道は、桜の名所となっていて、毎年多くの花見客が訪れます。参道の端の川内川沿いに第一の鳥居があります。この参道の両側には、かつて寺院が立ち並び「新田神社十二坊」と称されていました。
 降来橋と第二の鳥居の間の新降来橋は、昭和六十一に銀杏木川に架けられました。

  平成三十一年三月 薩摩川内市教育委員会

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熊襲穴:日向三代を巡る旅 その6

熊襲の穴

国道223号沿い、明治時代に開湯した妙見温泉の中心に位置する石原荘から少し下ったところに「史跡洞窟 熊襲隼人 日本武尊」の大きな立て看板があり、その坂を上ると駐車場がある。熊襲穴までは駐車場から山道を約200m登る。
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駐車場から続く道の途中に鹿児島出身の前衛作家萩原貞行による「神々の想い」が立っている。

白木の神明鳥居をくぐる。
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途中に縄鳥居。
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冬だからよいものの、結構急な階段が続く。

一体どこまで続くんだと思ったところで、目的地らしいのが見えてきた。
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最後の階段が最も厳しい。

隼人熊襲の額がついた門が立っていた。
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 切り立った崖のしたに洞穴がある。
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入口は低く、身を屈めないと進めない。

熊襲の穴案内板
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熊襲の穴

熊襲の穴は、この地点からおよそ五メートルのところにあり、昔熊襲族が居住していた穴で、熊襲の首領、川上鳥師が女装した日本武尊に誅殺されたところで一名嬢着の穴ともいわれます。 第一洞穴は奥行22メートル、巾10メートルで百畳敷位の広さがあり、更に右正面から第二洞穴につながっておりますが、現在入口が崩れて中へ入れません。第二洞穴は、約三百畳敷位の広さといわれております。

入口の右に、洞窟内の照明のスイッチがある。
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意を決してしゃがんで進むと、左にさらに狭そうな道が伸びている。
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穴を見上げると階段になっていて、その先に照明の光がみえた。
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頭をぶつけないように、階段を上がる。

階段を上がったところが第一洞穴。
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想像していた以上に広い。確かにこれくらいあると、人が住んでも不思議はない。

壁には駐車場近くにあった彫刻の作者萩原貞行による装飾が施されている。
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天井からは水が滴り湿度が高い。外気と隔たっていることもあって、むっとするほど暖かかった。

装飾があるせいで、暗がりに慄くような気分はそれほど湧かない。
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祠もある。
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天井からの雫や地面の水たまりを避けて奥まで進むと、下にむかって道が続いていた。
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案内板によると、この先にさらに広い第二洞穴があるそうだが、入口が崩れて入れないとのこと。

第一洞穴内にある「熊襲こそ貴族」と書かれた案内板。
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妙見石原荘の石原貫一郎氏によって日本武尊熊襲征伐と熊襲の物語に絡めた随想が書かれている。

多湿なせいで眼鏡が曇り、汗もかいたので外気が恋しくなった。
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洞窟から出る階段を見下ろすと、入ってきた時よりも一層狭く感じた。異空間から逃れるような気分で外に這い出た。

洞窟からの帰り道にすれ違う人がいた。やっぱり気になる人いるんだなあ。

 

妙見温泉が明治時代開湯の比較的新しい湯治場だからか『三国名勝図会』にも特に記述はない。もちろん、熊襲穴についても。

 

稲積翁住居跡の碑

熊襲穴からさほど遠くないところ、牧園町中津川地区の県道470号(犬飼霧島神宮停車場線)の道路脇に周知の史跡の標があった。
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細い脇道は日向ぼっこをする猫が数匹。ほとんど車の通らない道らしい。
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歩みを進めるとほとんどの猫が逃げ、一匹だけ残った。
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お邪魔してすみません。

これ以上の接近は無理か。
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稲積翁住居跡の碑及び石敢当案内板
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稲積翁住居跡の碑

この土地の住人で和気清麻呂公と協力してカッパ祭の悪い習慣を禁絶し又水利を興しかんがいを便にし住民に尊敬された人の遺徳を偲ぶために立てられた。

石敢当

江戸時代に道路の行き当たりに魔除けとして立てられた石柱で交通の要路にあり南九州独特のものである。

霧島市教育委員

どうやら稲積翁住居跡の碑に隠れて石敢当があったようだ。