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漂流ものがたり@国立公文書館

久しぶりの国立公文書館です。

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企画展漂流ものがたりが開催されていました。
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 四方を海で囲まれた日本に暮らす人びとは、中国、ベトナム、ロシア、アメリカ、さらには無人島と、数多くの漂流・漂着を体験してきました。一方、その逆もしかり。島国日本には異国から多くの船や人が流れ着きました。 本展示では、アジアや欧米へ漂流した日本人の体験や、日本に漂着した異国人への幕府の対応、現地の人々とのふれあいの記録などを、当館所蔵資料からご紹介いたします。

Ⅰ 異国への漂流・漂着

アジアへの漂流

寛永21年(1644)越前国の商人竹内藤右衛門ら58名が韃靼国(清国)へ漂着。韃靼国が明国を破り北京への遷都を進めている最中を目撃。
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《韃靼国漂流記 文鳳堂雑纂》
漂流民たちが盛京から北京へ連行される際、大きな城壁を通過。「韃靼と大明との境に石垣を築申候、万里有之よし、高サ十弐三間程」とある。

若宮丸の世界一周

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「環海異聞」(かんかいいぶん)
 寛政5年(1793)11月に陸奥国石巻を出航した若宮丸は、翌年アリューシャン列島の島に漂着。津太夫ら乗組員たちは、ロシアに8年滞留したのち、レザノフに伴われて、世界周航をめざす船に乗り込み、マゼラン海峡、ハワイ、カムチャッカを経て長崎へ帰国しました。本書は津太夫ら帰国者の見聞を、蘭学者の大槻茂質(しげかた、玄沢)が聞き取り、まとめた書です。ロシアの社会や風俗等を絵入りで紹介するほか、長崎における日露間のやりとりについても記しています。

《環海異聞 大槻茂質》
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石巻を出て半年、アリューシャン列島に漂着。島民が食料や寝床を用意してくれるも、異国人への気味悪さからその日は寝ずに過ごす決意をするも、数ヶ月の漂流で「至極疲候て、不覚」にも寝てしまったそうだ。

《環海異聞 大槻茂質》
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津太夫らは首都ペテルブククに上京するように命じられ、皇帝アレクサンドル一世に謁見して帰国を許される。病気で脱落したものやロシアへの残留を希望した6名を除き4名が帰国を希望した。軍艦で出航、デンマークに寄港、イギリス、カナリヤ諸島、ブラジル、ハワイを経て長崎に到着。実に11年ぶりの帰国だった。

Ⅱ 予期せぬ来訪者

うつろ舟の女

「弘賢随筆」(ひろかたずいひつ)
 幕臣で能書家、故実家、蔵書家の屋代弘賢(やしろひろかた、1758~1841)の手もとにあった雑稿を取りまとめて、編綴したものです。その大部分は毎月15日、弘賢の知友が会合して、持ち寄りの文章を披露し合った、三五会の会員たちの草稿からなっています。今回展示するのは第55冊目に所収の「うつろ舟の蛮女」。享和3年(1803)2月22日、常陸国の沖を漂流していた奇妙な船と、船中にいた異国女性の絵が描かれています。

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改元甘露草(叢)》
元禄11年(1698)5月、三河国渥美郡吉田浦(現在の愛知県豊橋市)に着岸したウツホ舟の記録。舳先に男の首をさらしていた。舟の中には女が一人。詮議しようにも言葉が通じないため長崎へ送還した。

《弘賢随筆》
享和3年(1803)2月22日、常陸国はらやどりという浜に一艘の船。香合のような形で長さ3間(約5.5メートル)あり、上はガラス障子で底は鉄板がはめられていた。中には水と食料と二尺四方(60センチ四方)の箱を持った一人の女。地元の古老の話では、これは蛮国の王の娘で嫁ぎ先で密通し流されたものだろうという。箱の中は密通した男の首だろうとのこと。幕府に連絡すると長崎への輸送の諸経費がかかるため、再び沖に流したという。

Ⅴ 大黒屋光太夫の漂流記録

漂流から帰還まで

天明2年(1782)伊勢国白子村(現在の三重県鈴鹿市白子)の神昌丸(乗組員17名)は、江戸に向かう途中に遭難。およそ半年漂流した後アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。現地人アレウト族やロシア人狩猟団の世話を受けながら生活していた。天明5年にロシア人狩猟団の迎えが来るも接岸に失敗して船が大破。話し合いの結果、自力で船を建造し天明7年7月18日、ロシア人25名、光太夫ら9名と光太夫の猫とでアムチトカ島を出港した。4年1ヶ月に及ぶ孤島生活だった。
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天明7年8月2日、ロシアのカムチャッカに到着。ここで越冬し、この地で元の乗組員3名が死亡。翌年6月15日に光太夫6名とロシア人15名がイルクーツクへ向けて出発。寛政元年(1789)2月9日にイルクーツク到着して、総督府へ帰国願を出す。それから帰国が許されるまでイルクーツクで生活する間に2人が洗礼を受けて帰化。寛永3年10月20日、エカテリーナ二世に謁見し帰国をゆるされる。翌年9月13日オホーツクから光太夫ら3人が、キリルの息子アダム=ラクスマンを遣日使節として伴って出港。10月9日根室に到着後に小市が死去。日本生還を果たしたのは、光太夫と磯吉の二人だけだった。

 

《北槎聞略(ほくさぶんりゃく)》

天明2年(1782)、江戸への航海中に遭難、漂流の後ロシアに渡り、寛政4年(1792)に帰国した伊勢国白子の神昌丸の船頭大黒屋光太夫等の体験を、蘭学者で幕府奥医師桂川甫周(かつらがわほしゅう)が幕府の命を受けて聴取したロシアの地誌・見聞録です。 ロシアの政治・経済・社会・物産・文字・言語などが詳細に記録されているほか、器物の写生図、地図の模写も含まれています。寛政6年(1794)8月に完成し、幕府へ献上されました。平成5年(1993)、重要文化財に指定されました。

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遭難の状況から仲間の怪我、病気のことまで克明に記されています。

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10年ぶりに日本に生還した光太夫と磯吉。

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館内では大黒屋光太夫についてのビデオ(約30分)が上映されていました。日本の開国を求めた最初の黒船は、光太夫を送ってきたエカテリーナ号であるという話が面白かった。帰国してからの光太夫の江戸暮らしなども紹介されていました。

今度、おろしや国酔夢譚を観ようと思います。