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これぞ暁斎!展@Bunkamura ザ・ミュージアム

河鍋暁斎展を観に渋谷の東急bunnkamuraに行きました。河鍋暁斎の絵が好きなので、この日を長く待ちわびていました。いよいよ暁斎、やっと暁斎
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東急百貨店には静岡のつるし雛が飾ってありました。一つ一つがかわいらしくて上ばかり見て、ショーウィンドウ素通り。
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Bunkamura ザ・ギャラリーです。
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www.bunkamura.co.jp

会場はそれほど混雑しておらず、ゆっくりと鑑賞できました。以下、気になったものをメモとして残します。

 

序章 出会い ゴールドマンコレクションの始まり

 ハーバード大学で美術史を学んだイスラエル・ゴールドマン氏は、浮世絵に興味を抱き、ロンドンで画商の道を歩み始めました。江戸時代の挿絵本、浮世絵の大家ジャック・ヒリアー氏の薫陶を受け、日本文化に対する深い知識を育みます。
 あるときゴールドマン氏はオークションで暁斎の「半身達磨」(第6章)を入手しました。その質の高さに驚愕した彼は、その後「暁斎」の署名の入った作品を意識的に集めるようになりました。

4《鯰の船に乗る猫 明治4-12(1871-79)年頃 紙本淡彩》
川に腹を出して浮かぶ鯰の上には、煙管を手にしてくつろぐ大きな猫。柳の生える岸辺、二匹の小さな猫が鯰のヒゲを引っ張って進む。

5《狐の嫁入り 明治4-12(1871-79)年頃 紙本着彩》
二匹の狐が向い合ってかしこまった顔をしている。 

10《鯰の曳き物を引く猫たち 明治4-22(1871-89)年 紙本着彩》
行列の先頭の猫は旗代わりに三味線を掲げている。4と同じく鯰のヒゲを引っ張って進む。猫らは口を開けでのんきそうな表情。地震を起こすといわれている大鯰を瓢箪で押さえ込むのは、大津絵の瓢箪鯰としてよく描かれたもの。三味線は猫の皮で出来ていることから芸者を表し、鯰にはヒゲがあることから役人とも見れる。

第1章 万國飛 世界を飛び回った鴉たち

明治3(1870)年の秋、上野の料亭で催された書画会で、例によって大酒した暁斎(当時は狂斎)は、新政府の役人を風刺する滑稽画を描き、その場に居合わせた警吏に捕縛されてしまいます。
入牢3か月、鞭打ち50回という刑を受け、ようやく釈放されました。暁斎はこの恥辱を深く後悔し、筆名を「狂斎」から「暁斎」と変えます。
この筆禍事件が災いしてか、明治10(1877)年に開催された第1回内国勧業博覧会暁斎が呼ばれることはありませんでした。しかし4年後の第2回内国勧業博覧会では出品が許可され、「枯木寒鴉図」など4点を出品、この図は事実上の最高賞である妙技二等賞牌を得ました。当時すでに暁斎に注目していた外国人たちは、こぞって鴉の絵を求めました。鴉は暁斎を一挙に海外に知らしめた作品となり、暁斎は海外に飛んでいく鴉を思い、鴉と万国飛の文字を組み合わせた印を作りました

11《枯木に鴉 明治4-22(1871-89)年 紙本墨画
第二回内国博の出品作《枯木寒鴉図》とよく似た構図の作品。尾羽の輪郭がとてもきれい。この手のものを何枚も書いたらしい。
《枯木寒鴉図》は100円という破格の値段で榮太樓本舗の細田安兵衛が買ったことから「百円鴉」とも呼ばれている。この受賞で暁斎は海外にも名を知られるようになり、飛んでいく鴉を思って萬國飛の印(向き合う二羽の鴉の間に萬國飛の文字がある方印)を作った。

12《枯木に鴉 明治4-22(1871-89)年 藍紙墨画、金砂子》
11とほぼ同じ構図だが、金砂子と藍紙で薄闇を表現したもの。

15《柿の枝に鴉 明治4-22(1871-89)年 紙本淡彩》
柿のヘタの黒ずみ(へたすき)がよく描かれている。

16《柿の枝に鴉 明治4-22(1871-89)年 紙本淡彩》
怒り顔の鴉。赤い実と描かれる鴉はどれも警戒している傾向。

17《日輪に鴉 明治4-22(1871-89)年 紙本淡彩》
日の出と三羽の鴉が描かれた揃いの四幅が並べて展示されているが、実際のところ四幅なのか定かでない。それぞれ、岩肌に蔦、岩肌に笹、柳、梅。三羽のうち二羽が同じ方を向く。日輪と萬國飛の落款の組み合わせがめでたい印象を与える。

21《鴉と鷺 明治18-22(1885-89)年 紙本墨画
梅の枝に立つ黒い鴉と柳の枝に立つ白い鷺の二幅。二羽が向き合うように展示されていた。

22《烏瓜に二羽の鴉 明治4-22(1871-89)年 絹本着彩》
冬、枯葉のつく柿の木にからまる烏瓜。くるくると螺旋になった巻きひげが愛らしい。木に止まり遠くを見据えて威嚇するように鳴く鴉。頭から背にかけての輪郭が美しい。完熟した烏瓜の実と萬國飛の印の朱色が映える。

23《月下 梅に鴉 明治4-22(1871-89)年 大々判多色摺版画》
鴉と重なるように月を表す円弧。梅の古木の強い黒が印象的。

第2章 跳動するいのち 動物たちの世界

暁斎は鴉をはじめ、鷺、虎、象、狐から鼠や猫、また蛙や昆虫などの動物を自由自在に描きました。その多くは実物の写生に基づいています。
暁斎の画塾では写生が重視されており、暁斎の伝記を載せた『暁斎画談』には、自宅の庭に様々な動物を飼って、弟子たちがそれぞれ好きな動物を描く場面があります。

27《雨中の蓮池に降り立つ白鷺 明治4-22(1871-89)年 紙本墨画
斜めに走る雨。強い風にうつむく蓮。茎の棘が強調して描かれている。白鷺は足をそろえて急旋回し、降り立つ地点を見据えている。

29《象 明治4-22(1871-89)年 紙本淡彩》
太い筆で一気に描かれている。象の肌の質感と密な睫をした悩ましげな瞳がとても写実的。

30《月下猛虎図 明治4-22(1871-89)年 絹本淡彩》
月に照らされて水面に写る自分の顔を狙う虎。象と比べると写実性に欠け、伝統的な虎の描き方に近い。象と違って実物を見ていないのかもしれない。

32《枇杷猿、瀧白猿 明治21(1888)年 絹本着彩》
枇杷を差し出す猿と、滝を渡る蔦にぶら下がる白猿が描かれた二幅。川べりの木に座る猿は牡蠣(?)の器に入れた枇杷を掲げ持つ。豊かな冬毛が質感よく描かれている。赤い顔が表情豊かで、見ているとほほえましい気持ちになる。滝の白猿の手足の縮こまり具合が写実的。

34《虎を送り出す兎 明治11-12(1878-79)年頃 紙本墨画
三羽の兎に誘導されて虎が送り出される。寅年から兎年への交代の絵。虎の前後に兎。背には鞭を持つ兎。鳥羽筆意と書かれていることから、鳥獣戯画を意識したもの。

36《鏡餅にねずみ 明治20(1887)年 紙本着彩》
遠景に日の出、鏡餅の上下にとても愛らしい鼠。

40《蛙の放下師 明治4-22(1871-89)年 紙本淡彩》
放下は室町時代から続く大道芸のひとつ。蛙の演者で長竿の曲芸を描く。竿も太鼓も三味線も扇子も蓮でできている。大蛙は片手に扇子を持って片足立ちになり、鼻先に長竿を立ててバランスを取る。長竿の途中によじ登る蛙。先端の花柄に三味線を構える蛙が座る。大蛙の足元に太鼓を叩いて大声を出す蛙。

42《月に手を伸ばす足長手長、手長猿と手長海老 明治4-22(1871-89)年 紙本淡彩》
足長人の背に手長人。その上に手長猿、手長海老と続く。手長海老の伸ばした鋏の先には月の円弧。左下の足長人から斜め上の月まで視線が誘導される。

43《動物の曲芸 明治4-22(1871-89)年 紙本着彩》
蝙蝠、猫、土竜、狐、鼠が衣装を着て、三味線や太鼓を鳴らし、ぶらんこ、綱渡り、梯子等の曲芸をする。二十日鼠以外の鼠も赤目。大入の扇子。狐が観客。

44《鳥と獣と蝙蝠 明治4-22(1871-89)年 紙本着彩》
イソップ物語「卑怯な蝙蝠」の挿絵。様々な鳥と獣が戦っているのを、蝙蝠が様子をみている。

45《獅子と熊と狐 明治4-22(1871-89)年 紙本着彩》
イソップ物語の挿絵。手前に兎を咥えて逃げる狐、背後に熊と戦う獅子。獲物は兎でなく子山羊だったような。

46《『通俗伊蘇普物語』 明治8(1875)年 多色摺版本》
「猿と二人の旅人」の挿絵。猿の群れに土下座する二人の男。

47《『暁斎酔画』初編、二編、三編 明治15,17,23(1882,84,90)年 多色摺版本》
三編「虫の遊」土竜にしがみつく蛙。蝙蝠が行司。鼠が蝙蝠の背中を瓢箪で押さえつける。兎の背に乗って駆ける蛙。蛙を乗せた柿の籠を運ぶ、大蛙と兎。

52《眠る猫 明治18-22(1885-89)年 団扇判錦絵》
耳を立て少し警戒を残しながら眠る三毛猫。白毛部分は空摺り。でっぷり太った猫。首の下に余った皮がやけに生々しい。

55《とくわかに五万歳(徳若に御万歳) 明治4-22(1871-89)年 色紙判錦絵》
徳若に御万歳は、いつも若々しく長寿を保つようにという祝いの言葉。書を広げた机の上の蟹の手には扇子。机の下でむずかしい顔をする亀たち。もしかして、説法を説く蟹ってこと?万年の寿命を持つという亀は、てっきり五匹と思ったら、一匹の背中に小亀がいて六匹いる。

63《〈天竺渡来大評判 象の遊戯〉 文久3(1863)年 大判錦絵》
さまざまな曲芸をする象。鼻息で灯を消す、くしゃみの響き等。

第3章 幕末明治 転換期のざわめきとにぎわい

江戸から明治への転換を経験した人々は、大きな断絶と価値観の変化を受け入れざるを得ませんでした。しかし暁斎は冷静に時代を観察することのできた、数少ない人間でした。
彼はいかに周囲が変わっても人間の本質には変わりがないことを知っていました。西洋の船に乗る外国人、博覧会場の日本人と西洋人、今戸で瓦を焼く職人や渡し船に乗る人々などが、まったく同じ視線で描かれています。

70《各国人物図 明治4-22(1871-89)年 紙本淡彩》
象や駱駝に乗る人、猿をつれた人、長毛犬をつれた西洋人の親子、サイトハウンドをつれた弁髪中国服の人等、様々な民族が描かれている。

71《隅田川今戸焼瓦焼きと渡し 明治3(1870)年以前 紙本着彩、金泥》
手前に梅、転ぶ子供、藁を積んだ山の上で凧揚げ。その奥の釜で瓦を焼いている。川の向こう、遠景に山影と鳥の群れ。釜から立ち上がる煙と凧糸で視線が上に誘導される。

73《野菜づくし、魚介づくし 明治18(1885)年 紙本着彩》
様々な野菜と魚介を描いた二幅。魚の方で河鍋暁斎カサゴを描いている。他にも川端玉章、渡辺省亭、松本楓湖、野口幽谷等が描いている。野菜の方は、佐竹永湖、滝和亭、柴田是真、柴田真哉などが描いた。

75《大仏と助六 明治4-22(1871-89)年 紙本淡彩》
縦長の本紙全長に渡る大仏の顔。大仏の唇のあたりで和傘を手に見栄を切る助六助六は歌舞伎の人気演目。大仏のまなざしが静かに助六に注がれている。

78《猫と鯰 明治4-22(1871-89)年 紙本着彩》
鯰がヒゲを伸ばして、川縁の猫に何かを渡そうとしている。猫は芸者、鯰は役人と見立てることもある。鯰が渡しているのは、恋文か金か。そういえば、鯰と柳の組み合わせが多い。柳の下の泥鰌ではなく鯰か。

79《居眠り猫と鯰 明治4-22(1871-89)年 絹本着彩》
酒瓶を横に布団にもぐりこんで寝ている鯰(役人)と、そのヒゲを抜こうと大きな毛抜きを構える八匹の猫(芸者)。

80《鍾馗と鬼の学校 明治4-22(1871-89)年 紙本着彩》
先生の鍾馗が拷問道具の図表を指して説明し、生徒の青鬼が手を上げて質問している。

82《雀の書画会 明治4-22(1871-89)年 絹本着彩》
雀たちが書いたり眺めたりしている。雀の丸まった頭が坊主頭のように見え、かしこまった雰囲気なのが面白い。

84《墨合戦 明治4-22(1871-89)年 紙本着彩》
墨を塗りあったりしているのが、実に楽しそう。 

92《名鏡倭魏 新板 明治7(1874)年 大判錦絵三枚続》
右端に「名鏡ノ竒特ニテ悪魔外道ノ類恐立させる図」とある。中央で鏡を叩いているのは名刀工の栗原信秀。右で鏡に光を反射させているのは名研師の本阿弥平十郎。和洋の妖怪、悪魔が逃げ惑う。左に「ロンドン新聞ニヽスル図」とあり、鷲鼻で緑の小袖に水色裃男など、暁斎旧知の英国人ワーグマンによる「ジャパン・パンチ」のキャラクターが登場している。

93《不可和合戦之図 明治10(1877)年 大判錦絵三枚続》
不可和(かわず)つまり蛙の合戦。中央では蛙の将軍が蝦蟇蛙に乗って蓮葉の采配を振るっている。兵士は蓮の武器を手にして気勢を上げて突進している。下には蓮根の大砲もある。緊張感あふれる場面だが、どの蛙も瞼が半分閉じて眠たげな表情なのがよい。

97《〈家保千家の戯〉天王祭/ろくろ首 元治元(1864)年 大判錦絵》
南瓜の擬人化。天王祭は、天王と書かれた扇子を手にして踊ったり、南瓜の花の神輿を担ぐ南瓜人が描かれている。ろくろ首は、川縁で長く伸びた弦の先についた南瓜に驚いて、南瓜人三人が大慌てで逃げ出している。署名は畑狂人、印章も南瓜。
暁斎が7歳で弟子入りした最初の師匠、歌川国芳のほふづきづくしを思い出させる。

101《〈暁斎楽画〉第三号 化々学校 明治7(1874)年 大判錦絵》
化け物たちの学校。上では閻魔大王がパネルに描いた地獄を講義中。画面中央では河童達がシリコダマやキウリとローマ字を習っている。暁斎の手にかかると動物はおろか妖怪までも人間臭いのが、楽しい。

笑う 人間と性

暁斎春画は数こそ少ないですが、歌川派浮世絵師の描く春画と比して際立つ特徴があります。それはユーモアです。
春画は笑い絵とも言われますが、暁斎の場合は文字通り笑いに溢れています。

春画は笑いのコーナーです。押印も実にわかりやすい。心の中でケラケラ笑っていたのですが、人前をはばかって、まじめな顔をして鑑賞しました。

第4章 戯れる 福と笑いをもたらす守り神

暁斎にとって、七福神は特別な意味を持っています。これに鍾馗風神雷神、山姥などを含めても良いかもしれません。七福神鍾馗は、暁斎の子飼いの役者たちです。

104《鍾馗と鬼 明治4-22(1871-89)年 紙本着彩、金泥》
振り上げた右手に剣で青鬼(ほぼ桃色だけど)を狙い、左手で赤い小鬼の襟首をつかんでいる。小鬼たちの指は三本。鍾馗の髪や髭、緑色の衣が跳ね上がり、下から大風が吹いている。背景、剣、衣の裾にも金泥が使われていて豪華な印象。
鍾馗は唐の玄宗皇帝の夢の中に現れた子鬼を退治して帝の病を治したとされる神鬼。鍾馗の絵は北斎、応挙、仙厓などを見ているが、私の頭の中で、どうも北斎の描く張飛とごちゃごちゃになっているような。

105《崖から鬼を吊るす鍾馗 明治4-22(1871-89)年 紙本淡彩》
鍾馗が小鬼をつるして、断崖にある薬草を採らせている。細い綱が心細いし、鍾馗の綱を持つ手がいまいち真剣味なくて、使われている小鬼が哀れ。鍾馗の方がよほど鬼だ。

106《鬼を蹴り上げる鍾馗 明治4-22(1871-89)年 紙本淡彩》
鍾馗、とうとう鬼を蹴って遊び始めた。鍾馗の躍動感がすばらしい。帽子の紐や衣の跳ね上がり。頭上高く飛ばされた小鬼の衣の線はかすれて二重に割れ、まるでカメラのシャッタースピードが遅かったような、速度感を生んでいる。

107《鍾馗と鬼の相撲 明治4-22(1871-89)年 紙本淡彩》
和気藹々と相撲を取っている。どう見ても仲良し。

109《鬼をおとりに河童を捕まえようとする鍾馗 明治3(1870)年以前 紙本着彩》
沼の中、小鬼に尻まくらせてそれを獲物に罠をしかけ、河童を取ろうとしている。鍾馗は身を隠して河童が罠にはまるのを待っている。ホント、小鬼かわいそう。

116《貧乏神 明治19(1886)年 紙本着彩》

骨が浮き出た男。髪も髭も貧相。右手に杖、ぼろぼろに破れた衣、背中には破れ傘や破れ団扇を担いでいるのが、縄でできた小さな輪の中に立たされている。封じられた?

118《猩々の宴会 明治7(1874)年頃 絹本着彩》
大勢の猩々らが、發光酒と書かれている大甕を囲んで宴会している。実に楽しげ。猩々は赤い髪をして猿のような姿の酒好きな中国の妖怪。

第5章 百鬼繚乱 異界への誘い

暁斎は写生を最も重視していましたが、実存しない幽霊や百鬼、閻魔や鬼などはどのように描いたのでしょうか。後妻の阿登勢が亡くなったとき、暁斎は彼女を抱き起してその顔や姿を写生したといい、出品作の「幽霊図」はその写生を元に描かれたと伝えられています。

125《幽霊図 慶応4/明治元-3(1868-70)年頃 絹本淡彩、金泥》
幽霊物も得意とした歌舞伎役者五代目尾上菊五郎から依頼された幽霊画。行灯の光に浮かび上がる、骨が浮き出るほど痩せた女の幽霊。右目は青い白目に金の瞳、左目は影になって銀色。光の当たっている方の顔と右腕は胡粉で塗られている。着物には薄く草の模様が見える。足元は消えている。

126《幽霊図下絵 慶応4/明治元-3(1868-70)年頃 紙本墨画
幽霊画の下絵。線を修正する時は胡粉を縫ったり、紙を貼ったりしている。下絵では着物の裾まで描かれている。

127《幽霊に腰を抜かす男 明治4-22(1871-89)年 紙本着彩》
草むらから飛び出してきた幽霊に驚いて、腰を抜かしてひっくり返る男。幽霊は黒い影で表されている。筆が走り痕がかすれて、霊が出てくる勢いがよく表されている。

128《地獄太夫と一休 明治4-22(1871-89)年 絹本着彩、金泥》
黒衣の一休は払子を持ち、腰掛けている椅子に朱太刀を立てかけているのが、禅展で見た頂相(135)を思い出させる。蓮の衝立の前、座布団に座る地獄太夫の着物は吉祥模様が緻密に描かれている。歌舞伎の一休地獄噺を元にした画題。人気だったらしく何作も描かれている。

129《地獄太夫と一休 明治4-22(1871-89)年 絹本着彩、金泥》
月と秋草が描かれている屏風の前に地獄太夫。その周りを小さな骸骨が飛び回る。大きな骸骨は片膝をついて皮も線もな三味線を弾いている。その頭蓋骨の上では黒衣の一休が踊り狂っている。一休が右手に持つ扇子も骨だけ。地獄太夫の打ち掛けや帯には炎のような赤珊瑚、七福神、独楽、小判、寿の字が描かれている。小袖には黄色い花模様。南瓜の花?

130《閻魔大王浄玻璃鏡図 明治4-22(1871-89)年 絹本着彩、金泥》
浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)は、閻魔大王が裁く時、死者の善悪の見きわめに使用する鏡。浄玻璃鏡に向き合って映し出された女は、向き合ったそのまま。罰される必要のない清らかな女が誤って地獄に来てしまったのか、閻魔大王が困っている。その後ろでは、青白い罪人の髪を持つ鬼が順番をまって控えている。

142《百鬼夜行図屏風 明治4-22(1871-89)年 紙本着彩、金砂子》
六曲一双の屏風。百鬼夜行といえば絵巻が多いが、暁斎は屏風に描いた。宵の右から夜明けの左に向かって、ユニークな姿形の妖怪が進む。今回の展示物の中では最も大きい。画面上下に金砂子。

147《〈暁斎楽画〉第二号 榊原健吉山中遊行之図 明治7(1874)年 大判錦絵》
右手に扇、左手で着物の袖をたくし上げて見得を切る男。足元に山犬、土竜、尻餅をつく骸骨。猿、狐、狒々が逃げていく。山中、妖怪の脅しにも動じない鍵吉の豪胆さを描いた画。
榊原健吉は明治の剣術家。明治9年(1876年)の廃刀令以後、刀の代わりに帯に掛けるための鉤が付いた杖のような木刀を所持するようになる。これが倭杖(やまとつえ)。そして脇差代わりに差したのが木製の扇で頑固扇というもの。最後の侍と言われた榊原謙吉の晩年のトレードマークとなった。
骸骨の腰のあたりにある道具は何でしょうね?

第6章 祈る 仏と神仙、先人への尊崇

暁斎は達磨図を多く描きました。狩野元信、常信の達磨、長谷川等伯や曽我蕭白の達磨、そして白隠による達磨など、名品と言われる達磨図は数多くありますが、暁斎の達磨図はそれらの系譜に連なっています。
もし暁斎が他の無数の作品を描かずに、達磨図だけを残していたとしたら、彼に対する評価はまったく異なったものとなっていたでしょう。

154《李白観瀑図 明治4-22(1871-89)年 絹本淡彩》
岩肌を荒々しく黒く塗り、水流を地の色で残し激しい瀑布を描いている。狩野派の唐代の詩人李太白が滝を見て吟ずる姿を描く。古くから多くの絵師がこの画題で描いている。荒々しい筆の勢いに目を奪われます。

155《中国山水図 明治4(1871)年 絹本淡彩、金泥》
米点皴を使った山水画。154の筆の勢いで書いたものとのギャップに暁斎の画風の幅広さを感じる。

156《雨中山水図 明治17(1884)年 絹本淡彩》
またがらりと印象を変えて、重く湿った空気を感じさせる溌墨的な山水図。伝統的なタッチもお見事。

159《半身達磨 明治18(1885)年 紙本墨画
達磨の顔は毛一本一本を描くほど丁寧に、衣は太い筆で大胆に。禅展で達磨の画はたくさん見ましたが、暁斎の描く達磨も良いなあ。師の前村洞和が暁斎の画才を賞して画鬼と呼んだというのはよく知られていますが、まあとにかく何を描いても上手いことに驚きます。

162《羅漢と鬼 明治4-22(1871-89)年 紙本着彩金泥》
洞窟で瞑想する羅漢に向かって鬼が槍を突き出している。鬼が手にする三叉槍の先には鼠の頭が刺してあり、それで座禅の邪魔をしようとしているのか。鬼の腰紐がトリコロールカラーでおしゃれです。

166《龍頭観音 明治19(1886)年 絹本着彩、金泥》
暁斎仏画も得意で、特に達磨と観音をよく描いた。晩年には日課観音として毎日観音を描いていたという。この画は日課観音とは別に丹念に描き込んだもの。暗雲の中、体をくねらせて進む龍の頭上に観音が立つ。美しく慈愛に満ちた表情、風にたなびく衣、龍の固そうな鱗。龍頭観音は姿を変えて現れる三十三観音の一つ。

167《寒山拾得 明治4-22(1871-89)年 絹本墨画
寒山と拾得を描いた一対。二人はよく卑俗な顔で描かれるが、暁斎のは穏やかな表情をしていて、のどかな雰囲気。寒山は遠くを、箒を持つ拾得は上を差し示し動きを見せている。二人を模式化したような押印。
寒山と拾得は唐の時代、乞食同然の暮らしをする非僧非俗の風狂の徒だが、試作をよくし、仏教の哲理に深く通じていた。宋代以後、彼らに憧れる禅僧や文人によって格好の画題となった。寒山は木靴を履き、拾得は箒を持ってよく描かれる。

169《霊昭女 明治17(1884)年 絹本着彩、金泥》
女が背中に籠を担ぎ、左の手のひらに銭、腰に瓢箪を下げている。結い上げた髪がキラキラと光る。霊昭女は唐代の龐居士の娘で、竹籠を売って両親に孝養を尽くしたと言われる。古くから禅宗の画題として用いられ、竹籠を下げた礼拝像風に描かれることが多い。

170《祈る女と鴉 明治4-22(1871-89)年 絹本着彩》
兵庫髷に髪を高く結い上げた遊女が外に向かって手を合わせている。外には画面半分を占めるように大鴉が描かれている。着物の青い紫陽花の柄、腰紐の赤が目を惹く。部屋の奥には着物を運ぶ禿(かむろ)がいる。着物の襟首と背景の襖のあわせが一致していて、首のない死者を運んでいるのかと錯覚した。

171《石橋図 明治3(1870)年 木板着彩、金泥》
歌舞伎石橋(しゃっきょう)の舞台を木の板に描いたもの。市松模様で縁取られた赤い舞台の上で、獅子姿で赤い髪を振り回す役者。足元には雪と白牡丹。舞台の下から眺めるのは寂昭法師。

 

開催して最初の週末の午後、会場はそれほど混雑していませんでした。たまに絵の前に出るのに待つことはあっても、人の頭越しというような羽目になることはありません。ただし、小さい絵が多いので混雑するとすぐ行列になってしまうだろうとは思いました。一回り2時間半。今回の展示物は、単眼鏡をほとんど使わずにすむタイプの絵がほとんどだったので、さほど疲労も感じず、休憩なしに一気に見ることができました(こうブログを書きながら降り返ると、もう少し、こってりした絵も見たかったな)。

会場を後にして、もっちりピザ。
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ここは半端な時間のランチにもってこい。今回もほどほどに空いてました。

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