鵜戸神宮:日向三代を巡る旅 その13
- 鵜戸神宮
- 一の鳥居
- 二の鳥居
- 授与所
- 神犬石
- 神門
- 斎館と社務所
- 楼門
- 千鳥橋
- 手水舎
- 石灯籠
- 玉橋
- 霊石亀石と運玉
- 三の鳥居
- 拝殿
- 本殿
- 皇子神社
- 九柱神社
- お乳岩
- 産湯の跡
- お乳水
- 住吉神社・火産霊神社・福地神社
- 宝物殿
- 鵜戸稲荷神社
- 恵比須神社
- 吾平山陵
鵜戸神宮
鵜戸神宮は宮崎県内では高千穂峡に次いで観光客(年間約100万人)が多い観光地である。全国でも珍しい下り参道があり、日向灘に面した断崖の中腹にある岩窟に本殿が鎮座する。
日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊を主祭神とし、相殿に大日孁貴(天照大御神)、天忍穂耳尊、彦火瓊々杵尊、彦火々出見尊、神日本磐余彦尊を祀る。
創祀の年代は不明だが、古代から海洋信仰の聖地であったとされている。古くは仁王護国寺が別当寺院として管掌して来た。社伝によれば、仁王護国寺は、光喜坊快久が第一世別当となって以来九世までは天台宗、後三代は真言宗仁和寺門跡が別当を兼摂して以後真言宗の別当がつぎ、二十九世別当頼祐法印の時になって新義真言宗智山派に転じた。そのころから鵜戸山大権現は宇内三大権現の一つで、両部神道の大霊場として広く知られ、西の高野山とまで言われるようになった。明治の神仏分離で権現号を廃し、六観音を安置した本地堂はじめ十八坊を教えた堂坊は廃止毀却され、仁王門は焼却されて、鵜戸神社と改称した。
桓武天皇より「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」の勅号を賜ったとあるので、権化神が祀られるということは当然本地垂迹説が広まった後、つまり奈良時代後期以降の創立となる。しかも、当時は神社とは認識されていなかったのだろう。当然、延喜式に名前はない。
明治期までは近郷の新婚旅行で、花嫁が盛装して美しい尻掛を置いた馬の背に乗り、花婿が手網をとるシャンシャン馬道中があった。
『日向國鵜戸山畧圖』には速日峯、エボシ峠といった山名や海岸の観音石、扇石、不動石といった岩石名、当時参道に並んでいた寺院や観音堂、鐘楼などが詳しく描かれている。
雨上がりの青空の下、日南市から国道220号を北上して日南海岸をひた走る。
さすが南国宮崎。海の色が違う。
一の鳥居
鵜戸交差点を右折し岬に向かうところに朱色の明神鳥居が立っている。
笠木は黒く、島木は白い
この先の道路は狭く、大型車は通行禁止。対向車に気を配り、時には路肩に車を寄せてやり過ごしながら進むしかありません。大晦日でもひっきりなしに対向車が来るのだから元旦は一体どんな酷いことになるんだろう。
鵜戸岬灯台を過ぎ、下り坂を進んで第一駐車場へ。
二の鳥居
駐車場脇に朱色の明神鳥居がある。
笠木と根巻は黒、島木は白で社紋の十六菊が三つ入る。笠木には雨覆いが施されているが、それほど目立たない。
参道にはお土産屋が立ち並ぶ。
授与所
境内に入ってすぐに御朱印受付およびお守りの授与所がある。
稲荷神社、恵比須神社神符授与所とある。
境内にはお土産屋が多いが、それとは別に初詣に向けての出店も多く並んでいた。
神犬石
参道の途中、海側に締め縄が張られた岩がある。
八丁坂(本参道)から本殿を御守護するように見えることから神犬石と呼ばれている
神門
参道を進むと朱色の門がある。手前には正月に向けて変わった門松が飾られていた。
飫肥藩に由来する古式の門松で、クズマキかずらで束ねた節木が置かれ、高く立てられた細竹の間に縄が張ってある。「つるは広くしっかり根をはるように、縄は絆を強め笑顔絶えない生活を、また縄のワラは向かって右側(海側)より七本・五本・三本という縁起のいい数の順で下がっています」とのこと。その他、橙と楪で「代々子孫に譲る」、椎は「楽しい」「嬉しい」を意味する。
神門は三間一戸八脚門である。
戸口左右に随身(矢大臣)が置かれている。
左が赤い衣で口を閉じた右大臣、右は黒い衣で口を開けた老形の左大臣である。
斎館と社務所
左が斎館で装束や神饌がおいてある。右が社務所。
国指定名勝案内板
国指定名勝 鵜戸 平成29年10月13日指定
名勝鵜戸は、日向灘に突き出た岬で、古来より南九州各地から厚い信仰を受け、修験の場としても栄えてきた。また、日向神話の海幸山幸神話の舞台として、鵜戸神宮本殿が建つ洞穴(隆起海食洞)や亀石、お乳岩や速日峯陵(主祭神陵)、周辺の玉依姫陵伝承地(宮浦古墳)などが伝えられている。
名勝の中核をなす鵜戸神宮は、南九州を代表する神社である。鵜戸神宮の社伝には延暦23年(804)に社殿を再興したとあり、近世には飫肥藩主伊東氏の庇護のもと造替や改修が行われた。明治維新までは、鵜戸山もしくは鵜戸大権現と呼ばれ、境内の仁王護国寺を仁和寺が所管し、神門に至る八丁坂参道の両脇には18の寺坊が並んでいた。
宮崎市青島から日南市風田にかけての日南海岸には、宮崎層群(約1200万年前から150万年前までの間、深い海底で砂の層と泥の層が交互に堆積した層)のなかでも古い時代の地層が露出しており、この砂岩泥岩互層が波の浸食を受けて形成された波食棚や海食洞、ノッチ(岩が窪んだ地形)が随所に見られる。鵜戸崎の南面に見られる波食棚は、鵜戸千畳敷奇岩(鬼の洗濯板)と呼ばれ、県の天然記念物に指定されている。
古からの自然景観と神話を背景とした鵜戸の地は、今も多くの人々から厚い尊崇を受け、また、景勝地としても多くの人々を惹きつけており、古くからの旅行記や日記等にその様子が記されている。このような特徴的な地形及び地質によって形成された風致景観は、その観賞上の価値が高く評価されることから、平成29年10月13日、国名勝に指定された。
日南市教育委員会
楼門
参道をさらにすすむと、二階建ての楼門が見えてくる。
楼門は朱塗り銅板葺入母屋造り。
初層上層とも桁行三間の梁間二間。左右に袖塀がつく。
二階には、来年の干支であるネズミと「鎮慶重暉」の文字が入った絵馬が飾られていた。
この二階部分の左右には門守社がそれぞれ祀られているという。
楼門の前に古い石灯籠がある。
火袋に一六菊紋、竿には「御武運長久」、基礎に「紙開発願主 大阪住油屋善兵衛」の文字が見える。
市指定建造物案内板
市指定 建造物
鵜戸山石灯籠のうち紙開発石灯籠一対飫肥藩は、寛政十二年(一八〇〇)に産業開発の一政策として楮栽培および紙の開発を計画した。そこで、大阪の両替商油屋善兵衛から資金の提供を受け、飫肥藩内で生産された和紙を大阪で善兵衛が飫肥藩の蔵元として販売し、事業は順調に拡大された。
紙開発灯籠はこの事業の成功を祈念して、天保三年(一八三二)に善兵衛が鵜戸六所権現(鵜戸神宮)に奉納したものである。灯籠には油屋一族とともに飫肥藩の大阪蔵屋敷の役人達の名前も刻まれている。昭和四十五年十一月三日 指定
日南市教育委員会
楼門を脇から参道の先を覗く。
楼門や柵に塗られた鉛丹、山の緑、空と海の青が見事なコントラストを作る。
鵜戸神宮御由緒・おちち岩案内板
鵜戸神宮御由緒
主祭神 日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊
当宮のご創建は、第十代崇神天皇の御代と伝えられ その後第五十代桓武天皇の延暦元年には、天台宗の僧光喜坊快久が勅令によって当山初代別当となり、神殿を再興し、同時に寺院を建立して、勅号を「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」と賜わった。
また宗派が真言宗に移ったこともあり、洞内本宮の外本堂には六観音を安置し、一時は「西の高野」とうたわれ、西都神道の一大道場として、盛観を極めていた。
そして明治維新とともに、権現号、寺院を廃し、後に官幣大社鵜戸神宮 にご昇格された。
母君の豊玉姫が御子の育児のため、両乳房をご神窟にくっつけて行かれたと伝える「おちちいわ」は、いまもなお絶え間なく玉のような岩しみずを滴らせて、安産、育児を願う人々の信仰の拠り所となっている。又、霊石亀岩の背中に運玉を投げ見事にはいると願い事が叶うという伝えがある。
このほか、 念流・陰流の剣法発祥の地として、厄除・漁業・航海の守護神としての信仰は愈々篤く、今後とも神秘な霊気によって人々の魂を高めて行くであろう。
霊石「おちち岩」
当神宮ご祭神の母君「豊玉姫命」が、洞窟に造った未完成の産屋でご出産の際、父君「彦穂穂出見尊」がのぞいてしまいました。
そのため母君は故郷の海の国へ帰らなければならず、その際お生まれになったご祭神への愛情と健やかな成長を願い、ご自分の両乳房を洞窟内にくっつけていかれたといわれています。現在も絶えず石清水がしたたり落ちる神秘の岩。洞窟内の、ご本殿裏に回るとご覧いただけます。
参道から岩が作る白波を眺める。
千鳥橋
この先、参道がならだかに下っていく。
鵜戸神宮は、下り参道の神社としても有名である。
手水舎
石灯籠
灯籠十基を慶安元年八月、飫肥藩主伊東祐久公が寄贈した。
神橋案内板
神橋(玉橋・霊橋・鵜戸の反橋)
この神橋は、神仏習合時代には金剛界三十七尊の御名が書かれた三十七枚の板が配してありました。
この神橋を渡ると御本殿に至る急な石段です。
これより先は、古来より尊い御神域、霊場として深い信仰を集めてまいりました。
かつては、橋の手前から履物を脱ぎ、跣でお参りをしていました。
今はその習慣はなくなりましたが、その心は生きています。
お参りの方々は御神慮にかない、心は清く正しく明き人として祝福され、御加護を受けられるといわれています。ようこそおいで下さいました。
この神橋と石段、どうぞ足元に注意して下りられごゆっくり御参拝下さい
玉橋
狭い朱色の太鼓橋。橋の左脇から橋下をくぐって、海を眺めることができる。
玉橋の反橋は三十六枚あり、これが金剛界三十七尊のうち三十六尊を表し、橋を渡る本人が一尊となって三十七尊の仏を表すという言い伝えがある。
玉橋の上から断崖と海食洞が見えた。
海蝕した崖にはコンクリーションがたくさん見える。
急な階段を降る。
階段途中から海を見る。
この辺一帯は砂岩であるため、海蝕がすさまじい。
階段下から見上げる。
当然、帰りはこれを登るわけで。
霊石亀石と運玉
玉石から続く階段の下で、多くの人が眼下の岩に向かって玉を投げる。
運玉を買う。5個で100円。
男は左手で、女は右手で投げる。
穴に入らずとも、岩に乗れば願いが叶うという。
穴に入った運玉は定期的に回収されて、天日で干される。
「幸の玉御守」として授与所で扱いがある。
目の前の岩を見て、ふと宮崎市内の平和台公園にある平和の塔(八紘之基柱)を思い出した。
三の鳥居
洞窟の入口には明神鳥居が立っている。
笠木と根巻は黒、島木は白で社紋の十六菊が三つ入る。笠木には銅板の雨覆いが施されている。
県指定建造物案内板
県指定建造物 鵜戸神宮 本殿 宮崎県教育委員会(平成7年3月23日指定)
鵜戸神宮本殿は、鵜戸崎の日向灘に面した岩窟内に建てられている。
本殿創建の年代は不詳であるが、社伝によると崇神天皇の代に創建し、桓武天皇の勅命により、光喜坊快久が神殿及び仁王護国寺を再興した、と伝えている。中世には、「鵜戸六所大権現」、江戸時代以降は「鵜戸山大権現」として、日向国内外から厚い信仰を得ていた。
現在の本殿は、正徳元年(1711)に飫肥藩五代藩主伊藤祐実が改築したものを明治23年(1890)に大修理を行い、さらに昭和42年(1967)に修理したものである。平成9年度(1997)には屋根や内装等の修理が行われた。このように幾度の改修を実施したものの、岩窟内に見事に収めた権現造風の八棟造は、往時のままであり、その文化的価値は高い。説明板管理者/道なん市教育委員会 電話0987-31-1145
拝殿
洞窟の屋根ぎりぎりに朱塗りの八棟造り(権現造り)の社殿が建っている。
拝殿は銅板葺入母屋造りで千鳥破風と唐破風がつく。
社殿は極彩色の彫刻で飾られている。
木鼻の龍が可愛らしい。
他の獏や獅子もよい味を出している。
天井画は龍である。
内部は様々な彫刻があって実に賑やか。
本殿
社殿の横に回り込み、側面から幣殿と本殿を見る。
洞窟の高さぎりぎりに屋根がある。よくもまあこんな所に、これほどまでに立派な社殿を作ったなと感心する。
鵜戸神宮本殿の案内板にあった平面図とは違いがある。最後方の切妻屋根部分は後に増築されたものかもしれない。
参考までに、別の日の社殿側面。
社殿の裏に回る。
銅板葺切妻造りの部分が増築部である。
皇子神社
本殿左側に鎮座する。小さいながらも立派な社殿。朱塗り銅板葺切妻造り一間、千鳥破風に唐破風の向拝を供える。
神武天皇の長兄、彦五瀬命(ひこいつせのみこと)を祀る。
九柱神社
朱塗り9間長屋造りで銅板葺切妻屋根を持つ。
伊耶那岐命が阿波岐原で禊をした時に生まれた九柱(神直日神、大直日神、伊豆能売神、底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神、底筒之男神、中筒之男神、上筒之男神)を祀る
お乳岩
洞窟の天井から延々と水が滴る。
お乳岩
産湯の跡
主祭神鵜草葺不合命が生まれた産屋と伝わる。
賽銭箱の下に洞がある。
お乳水
この水を使って、当地名物のお乳飴が作られる。
住吉神社・火産霊神社・福地神社
チタン板張りの屋根が珍しい朱塗り三社流れ造り。塩害が激しい環境であることから、2019年1月に耐腐食に優れる新日鉄住金社製チタン材に葺き替えられた。今後神宮本殿でも同様の改修が検討されているという。
御祭神は、住吉社が底筒男神、中筒男神、上筒男神、火産霊社が火産霊、副智社が仁徳天皇を祀る。
宝物殿
左に神武天皇御降誕傅説地の碑、右に古狛犬。
碑の前にはコンクリーションが置いてあった。
古狛犬は、江戸時代後期文政八年(1828年)の土砂崩れにより海中に沈んだものを引き上げて修復したもの。
狛犬の傷みが激しい。
鵜戸稲荷神社
階段に朱塗りの稲荷鳥居が並んでいる。
階段下の狛犬。
阿型は口の中に玉があり、吽型は前足で玉を抑えている。
階段最上段に笠木と根巻が黒い明神鳥居がある。
鵜戸稲荷神社の玉垣には棟門が付いている。
四本の支柱がある。
社には狛狐が飾られていた。
恵比須神社
吾平山陵
参道脇、楼門の近くにあった吾平山上陵案内板。
吾平山上陵
鵜戸陵墓参考地
本宮御主祭神日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊を葬め奉ると伝う
此處より仰ぐ神域の最高地速日峰の頂に在り
此處より約三百五十米自然林の中青苔を踏んで登る
宮内庁書陵部の管轄で陵守部が置かれている
鵜戸稲荷神社の側にある白木の神明鳥居が吾平山陵への登山口である。
奥にスズメバチにご注意下さいの看板あり。夏場は要注意です。
吾平山御稜・波切神社案内図
ここから吾平山稜まで375mと書いてあったので、軽い気持ちで階段を登り始める。
途中までは比較的楽な階段だったが、途中からは角石を渡る方が辛そうな山道になる。
前日が雨だったので苔むした石段は滑るし土はぬかるんでいる。山向きの格好でもないし登山向きの靴でもなかったので、後悔は早かった。
飛び石の段差がとにかく大きい。木の根の間を通った方が楽なため、靴は既に泥まみれ。
ロングスカートの裾が汚れそうなので、たくし上げて登らないといけないし、コートも次第に重くなる。ちなみに日常的に楽に10キロ走る体力があるんだが。
うんざりしてきた所で、ようやく山頂らしき光がみえた。
ゴールが見えたので、あとは気合で登る。
ようやく到着。登山口からの所要時間は12分でした。
鵜戸陵墓参考地は、鵜戸神宮の御祭神鵜草葺不合命の陵墓と伝えられている。
宮内庁による注意書き。
宮内庁御陵墓参考地となっているのは鹿児島県吾平町の吾平山陵が治定されたため。明治28年に鵜戸神宮の陵墓は伝説地と指定された。
玉垣で囲われているのみ。鳥居はない。
前方後円墳だという説もあるが、自然の山にしか見えない。
前方後円墳だとしたら3、4世紀のものになるので、ますます時代が合わないような。
帰路はさすがに息は切れないものの、濡れた急斜面が滑りやすく、いつ尻もちをついてもおかしくない状況で緊張しました。この後、とても波切神社に向かう気力はありませんでした。
靴がひどく泥まみれで、それが一番のダメージでした。
吾平山上陵:日向三代を巡る旅 その12
- フェリーなんきゅう
- 吾平山上陵
フェリーなんきゅう
薩摩半島の最南端の指宿市から大隅半島への移動にはフェリーを使うことにした。
吾平山上陵へのルートは、指宿市山川港と肝属郡南大隅町を結ぶフェリーなんきゅうを使うのが理想(おおよその所要時間:2時間10分)だが、年末は予約を受け付けていなかった。フェリーなんきゅうの窓口に電話した時に「年末はとても混雑する」、受付が先着順なので「けっこう前から待たないといけない」とも言われ、どうやらお宿の朝ご飯を食べている余裕はないもよう。フェリーなんきゅうに乗れなかった場合は、鹿児島市まで北上して桜島フェリーを利用し、桜島経由で移動することにした(おおよその所要時間:3時間16分)。つまり、車を走らせる1時間か、待合室で待つ1時間かの違い。
山川港8時発の1便に乗るため、お宿を早朝に出て山川港に到着したのが出港1時間前の7時。誰もいない。
圧倒的に早すぎました。東京の混雑と同じに考えてはいけません(笑)
外に出て、停泊中のフェリーなんきゅうを眺める。
乗用車だけなら15台ほど乗るそうですが、大型車が入るとぐっと少なくなるとか。
7時20分に受付が始まりました。
7時30分、3台目でフェリーに乗り込みます。
最終的に1台取り残されての出港となりました。
フェリー内の客室。この広さの部屋が二つあり、かなり余裕があります。
遠くに大隅半島が見える。
フェリー所要時間は約50分。
大隅半島側の根占港に無事到着しました。
ここから吾平山上陵までは車で約40分です。かなりショートカットした気分。
龍宮神社:日向三代を巡る旅 その11
長崎鼻に向かう。
お土産屋が立ち並ぶ道、長崎鼻パーキングガーデン。
途中に鹿児島弁検定の看板。
商店街が切れた所に龍宮神社がある。
神社を横目に、まずは灯台へ向かう。
指宿まるごろ博物館①長崎鼻周辺案内板
続きを読む長崎鼻の竜宮伝説
古事記にある「山幸彦と海幸彦」や「浦島太郎」などの竜宮や乙姫にまつわる伝説は、全国各地にありますが、ここ長崎鼻は、竜宮伝説の発祥の地として知られています。長崎鼻周辺に伝わる伝説によると山幸彦(浦島太郎のモデル)は、竜宮城で豊玉姫(乙姫)と出会い結ばれ、3年間を過ごしました。その後、山幸彦はすでに身ごもっていた豊玉姫を連れ、玉手箱(枚聞神社に奉納)と千年古酒をいれた2個の大甕を乗せ、帰ってきました。
たどり着いたところは山川郷竹山の「無瀬の浜」の海岸。この沖合にあり、龍宮門とも伝わる奇形の島「俣川洲」で豊玉姫はお子をお産みになったと伝えられ、その子は「鵜草葺不合命(神武天皇の父)」と名づけられたと云われています。
また、一説にこの話は「竜宮城は琉球城であり…」とのくだりがあることから、大和と琉球の交易を示す話とも云われています。
玉乃井:日向三代を巡る旅 その10
池田湖から県道28号(岩本開聞線)を南下し、枚聞神社に向かう途中、田園風景が広がる中にぽつんと木立が生い茂る場所があった。
浦島太郎伝説の元になった山幸彦海幸彦伝承の地だという。
江戸時代後期に薩摩藩によって編纂された『三国名勝図会』の24巻に「玉井」として描かれている。
本文には 『日本書紀』に出てくる豊玉姫が朝夕使っていた井戸と伝え、「是太古は此地江海にて、竜宮界なりし故、此傳へあるなり、又昔日は頴娃山玉井寺龍寶坊といへる寺院ありしと云々」と書かれている。さらに、玉の井の地と同じく昔は海中だったとされる聟入谷(むこいりだに)があり、そこが山幸彦が豊玉姫を娶った場所とされている。
木立の間に小道があり、脇に標柱と案内板がある。
続きを読む瓊の井
枚聞神社:日向三代を巡る旅 その9
開聞岳
薩摩川内市から薩摩半島を南下して指宿市へ。年末だというのに菜の花が咲き誇る池田湖。さすが亜熱帯気候。
遠くには薩摩富士とも呼ばれる開聞岳が見える。その昔、麓の枚聞神社に因んでひらきき岳と呼ばれ、神名備信仰があった。
鎌倉時代に式内社 枚聞神社と新田神社とで薩摩国一宮相論が起こったことから薩摩国には一之宮が二つ存在する。『延喜式神名帳』に記される式内社 薩摩国一宮 枚聞神社(ひらききじんじゃ)は、当初開聞岳南麓に鎮座したが貞観16年(874年)の噴火で揖宿神社に避難し、その後北麓の現在の地に遷座した。
『三国名勝図会』による枚聞神社
枚聞神社は、江戸時代後期に薩摩藩によって編纂された『三国名勝図会』の23巻に「開聞神社」として描かれている。
『三国名勝図会』本文には、主祭神が国常立尊、天照大神、猿田彦大神で、配祀神として八座、天忍穂耳尊、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野大隅日命、田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命と、五男三女神を祀って総名を開聞九社と称すと記している。
さらに、枚聞神社の歳神は古くから諸説ありとして『延喜式神名帳』には「猿田彦命云々」と始まり、『神社啓蒙一宮篇』に綿積神社、『神社便覧』に和多津美神社、『神代巻塩土伝』に「枚聞神和多津美神傅云祭鹽土老翁」、『撰集薩隅日神社考』二書に「猿田彦太神又曰西宮天智天皇幷后」、『開聞古傳』に「開聞社、豊玉彦命、豊玉彦妻神、鹽土老翁、又豊玉姫を祀る」等々と史料を丁寧に並べ、『日本書紀』の山彦海彦に触れ、別に天智天皇の開聞御臨幸と大宮姫の伝説を「虚妄無稽にして、明證なく、牽強附會にして、信用すべからず」とばっさり切り捨てる。
最終的に「古説の如き當社祭神は、和多津美神を本とし、鹽土老翁とし、猿田彦命とし、出見尊、豊玉姫とす、郡本一宮の如き、中宮猿田彦大神、豊玉彦命、日月神、鹽土老翁、玉依姫、東宮出見尊、豊玉姫、西宮大己貴命、天智天皇の九體とす。此西宮を除て外は、皆出見尊海宮遊行に係る諸神なり」とまとめる。
枚聞神社御祭神を結論してなお書き足らなかったのか、24巻に続いて天智天皇の開聞御臨幸と大宮姫の伝説が贋説であることを相当な頁を以て述べ、新田神社とで薩摩国一宮相論が起こった際に神格を高めるために持ち出されたのではないかと論じている。
『三国名勝図会』が読めば読むほど面白すぎて、なかなか訪問記に入れない。
一の鳥居
県道28号、枚聞神社前交差点脇に明神鳥居がある。
額束に社紋の十六菊花紋が入っている。鳥居の奥に広い駐車場があるが、この日は正月の出店が立ち並んでいた。
鳥居の両脇に切妻造三間の建物がある。
長庁でもないし回廊でもない。随身像か何か置くつもりだったか。
二之鳥居の両脇に大きな楠木がある。
左手前に手水舎、右に車祓所がある。
手水舎
銅板葺切妻造四方転び開放ち。
中央に天然石の手水鉢がある。
枚聞神社及び付近案内
枚聞神社及び付近案内
鎮座地 鹿児島県指宿郡開聞町十町
御祭神 枚聞神一座 神社由緒記に大日孁貴命(天照大御神)を正祀とし他に皇祖神を併せ祀るとある。
御沿革 御鎮座年代を詳らかにせずとも雖も社伝には遠く神代の創祀なりと云う。既でに貞観二年薩摩国従五位下開聞神加従四位と三代実録に載せられているのを始め延喜式には薩摩国枚聞神社とある。
古来薩摩国の一の宮、南薩地方一帯の総氏神として代々朝廷の尊崇厚く度々奉幣あり、殊に藩主島津家代々の崇敬絶大にして歴代藩主の修理、改造、再建等十余度に及び地方開拓の祖神として、又特に厄除、開運、交通安全、航海安全、漁業守護神として琉球国を初め地方民の崇敬篤に厚く明治4年国幣小社に列格せられた古社である。御例祭 十月十五日
宝物 国指定重要文化財「松梅蒔絵櫛笥」外数十点あり、「最古の大酒甕」拝観可
付近名勝
開聞岳 標高九百三十四米、二重式火山 頂上に当社末社御嶽神社鎮座
玉乃井 日本最古の井戸、龍女豊玉姫命水汲みの井戸と云う。
聟入谷 彦火火出見命と豊玉姫命のご結婚の跡と云う。
池田湖 周囲約二十キロ、九州最大の淡水湖寄贈 開聞町 山下石油 山下昇
福岡市(株)山水製作所 山下良夫
肝心の御祭神についてさえも言葉を濁した書き方なのが気になる。なお、鹿児島県神社庁のサイトの枚聞神社のページには大日孁貴命と五男三女神が記されている。山幸海幸に絡む和多津美神は除かれた形だ。
御神木
枚聞神社のクスノキ案内板
枚聞神社のクスノキ
科名 クスノキ科
樹齢 800年
幹周り 7.9~9.5m
樹高 18.0~21.0m「枚聞神社由緒記」によりますと、神社は開聞岳の北麓に面して鎮座し境内地は約7000坪で、その中には千数百年を経た老樹が数多くあります。枝が鬱蒼と茂り天高くそびえている様は、このお社が由緒深い神社であることを物語っています。
神社の祭神は天照大御神を正祀として他の皇祖神八柱神を併せ祀っており、 特に交通安全・航海安全・漁業守護の神として船人達から厚く信仰されてきました。 古くは、琉球王が枚聞神社に対して信仰が厚く、入貢の都度、神徳讃仰の文字を表す扁額を奉納したとのことで、現在その当時の扁額7枚が宝物殿に飾られています。調査 平成22年2月 特定非営利活動法人 縄文の森をつくろう会
南薩地域振興局
二之鳥居
門杜社に挟まれて両部鳥居が立つ。
二之鳥居をくぐると社殿、その奥に開聞岳の山頂が見える。
多くの神社と異なり、枚聞神社の社殿は北に向いている。なお、開聞岳山頂には開聞神社の奥宮御岳神社がある。
参道両脇に手水鉢。正面に勅使殿、その左右に東西長庁がある。
左が東長庁で神符守札所、御祈願受付、右が西長庁でおみくじ所になっている。
県指定有形文化財案内板
県指定有形文化財
枚聞神社本殿
県指定年月日 平成二年三月二十三日
所有者 枚聞神社
種類 建造物枚聞神社の社殿は、総漆塗極彩色の鹿児島地方独特の建物で、正面に唐破風の向拝のついた勅使殿、その奥に拝殿幣殿、本殿と連なり、本殿入口には、みごとな雲龍の彫刻柱がある。また、勅使殿の両側に東長庁とに西長庁が配置されている。
勅使殿
黒縁朱塗り銅板葺入母屋造妻入で唐破風向拝がついている。
鬼瓦や破風下の蟇股には社紋の十六菊紋が付いているが、唐破風の妻飾りに三巴紋によく似た紋が見える。
勅使門は御簾が巻き上げられて、内部がよく見えた。
格天井で、天井絵が描かれている。
勅使殿と長庁の間を通って拝殿に回る。
拝殿
拝殿は朱塗り、銅板葺入母屋造妻入で縋破風向拝がついている。
勅使殿と比べて装飾が少ないため、丸桁や組物の彩色が目立つ。束帯の平緒のよう。
本殿
拝殿の屋根の奥にわずかに本殿屋根が見える。
屋根には外削ぎの千木に5本の鰹木がついている。
本殿は1786年に再建されたもので、方三間、銅板葺入母屋造妻入で、一間の縋破風向拝がついているという。
宝物殿
入ってすぐに料金箱があるので入館料100円を入れる。
国指定重要文化財案内板
国指定重要文化財
松梅蒔絵櫛笥付属品並目録共一合国指定年月日 昭和二年四月二十五日
所有者 枚聞神社
種類 美術工芸品松梅の蒔絵で飾られた昔の女性の化粧箱である。作者及び伝来は詳らかでないが、古くから本殿に納められ、「玉手箱」あるいは「あけずの箱」「玉櫛笥」等とも呼ばれ、大事に保管されてきた。
付属品の内容は、小箱十一と、小壺一、御櫛三、たとう紙四、角鈎二、鬢板一、金銀散らし箔紙一、綿の袋一、服紗巻筆三、御もとゆい二、御まゆつくり三、鏡二、合計二十三個の化粧道具が入っている
この化粧箱の細別目録に「大永三年」(西暦一五二三年)ちかかれているので、室町時代の作品で、高貴な女性の持ち物と推察される。わが国の風俗史研究上重要な資料となるものである。
《◎松梅蒔絵櫛笥付属品並目録共 1合 室町時代16世紀 鹿児島県・枚聞神社》
この地に伝わる海幸山幸神話に関連付けて「竜宮の手箱」と伝えられている。
開けてはならない玉手箱の中身。
蒔絵も美しく付属品も一揃い残る大変素晴らしい物ですが、宝物館の薄暗い照明の中ではその輝きが幾分損なわれて見えるのが惜しかった。
可愛山稜:日向三代を巡る旅 その8
可愛山陵(えのみささぎ)は天津日高彦火瓊瓊杵尊の陵。高屋山上陵、吾平山上陵とともに神代三山陵の一つである。
瓊瓊杵尊の陵は、『日本書紀」に「筑紫日向可愛山之山陵」とあり、明治政府により1874年(明治7年)、新田神社(現・鹿児島県薩摩川内市宮内町)境内の神亀山が治定された。
昭和11年出版の『川内地方を中心とせる郷土史と伝説』に可愛山の名の由来が書かれている。
可愛山と称するは川内川にちなんでの名である。即ち可愛山は借字で『江の山』と書くべきである。川内川が当山の川上から二つに分れ一つは今の川筋で他は可愛山の後を巡りて再び合流し可愛山は其昔、中島であったと言われている。其の入江の水を引いて神殿が出来たので新田の地名が起り、水道を水引と言って之も地名(水引村)となった。可愛山は江の山の義、江は大川を指し(難波江、佳江、高江などの如し)神亀山は山の形状から名づけたのである。
江戸時代後期の安政元年(1854年)、津久井清影著の陵墓集『陵墓一隅抄』の付図『聖蹟図誌』に「薩摩国高城郡水引郷宮内村内瓊々杵命之埃之山稜之圖」として描かれている。
江戸時代後期に薩摩藩によって編纂された『三国名勝図会』の13巻に「神亀山」が描かれている。
『三国名勝図会』の14巻には「可愛山稜」が新田神社から谷を挟んで戌亥(西北)の方角に百二十歩の場所にあるとして描かれている。
この絵では、左の端陵が木花咲耶姫の陵墓、中陵を可愛山陵としている。
新田神社の社殿を左に向かい社務所の前を通って進むと可愛山稜への看板がある。
猫もいる。
さらに進んで石段を上がる。この階段脇にも老木の楠があった。
可愛山稜
雑木が茂っている。
陵は玉垣で囲われ、その内側にある階段の上に石製の神明鳥居と瑞垣が設けられている。
宮内庁による注意書き
新田神社の賑わいに比べて、大変静かでした。
新田神社:日向三代を巡る旅 その7
鎌倉時代に式内社枚聞神社と新田神社とで薩摩国一宮相論が起こったことから、薩摩国には一之宮が二つ存在する。薩摩国一之宮 新田神社(にったじんじゃ)は薩摩川内市街地にある神亀山(しんきさん 高さ70m)の山頂にあって瓊瓊杵尊を祀る。川内八幡とも呼ばれる。
江戸時代後期に薩摩藩によって編纂された『三国名勝図会』の13巻に「八幡新田宮」として描かれている。平安時代中期に起こった承平天慶の乱を機に、国家鎮護を祈願して石清水八幡宮から勧請されて八幡宮を名乗るようになった。
新田神社が可愛山稜との関係を主張し始めたのは鎌倉時代に遡る。新田神社は最初神亀山の中腹にあったが平安時代末期に焼失し、後に山頂に遷座した。当時再建の滞りがある中で、宗教的権威を強める目的で可愛山稜との結びつきを強めたと思われる。これにより、八幡宮本来の祭神である応神・仲哀天皇と神宮皇后に加えて瓊瓊杵尊を合祀したと思われる。さらに神格を強調するためか、鎌倉時代中期には八幡宮発祥の地であることを主張し、蒙古来襲後に展開した一宮相論の結果、薩摩国一宮を称し始めた。
川内川は南九州最大の河川で、熊本県最南端の白髮岳南麓から宮崎県を経由し薩摩川内市に至る。
一の鳥居
川内川の辺りから新田神社の参道が伸びる。
瓦葺きの雨覆いがついた両部鳥居である。雨覆いと笠木の反増がやけに大きく、まるでバッファローの角のよう。
二之鳥居
桜並木の参道を300メートルほど進むと道路を挟んで二之鳥居がある。
一の鳥居と同じく、これも瓦葺きの雨覆いがついた両部鳥居。
神橋(降来橋)
二之鳥居をくぐるとすぐに銀杏木川に架かる太鼓橋「新降来橋」がある。
新降来橋に並行して車道用の宮前橋が架かる。
橋を渡って振り返る。石橋のアーチが美しい。
写っているのは新降来橋で、上の『三国名勝図会』の絵に描かれている降来橋は、写真手前で見切れている。
降来橋と擬宝珠の案内板
続きを読む降来橋と擬宝珠
昭和61年3月26日指定
管理者 新田神社降来橋は、明治二十五年十一月に架け替えられた、長さ八メートル、幅五メートルほどの石造太鼓橋です。
この橋の由来は古く、昔はこの場所に忍穂川が流れており、そこに架けられていました。三國名勝圖會によると、正応三年(一二九〇)新田八幡宮の降来橋において舞楽が催され、多くの見物人が訪れたと記録されています。
慶長七年(一六〇二)島津義弘が、神社の神殿を修復した際、この降来橋の欄干んい刻銘入りの青銅製擬宝珠八個が取り付けられました。現在は外され、宝物殿に大切に保管されています。
川内川から神社までまっすぐ伸びる八丁馬場と呼ばれた参道は、桜の名所となっていて、毎年多くの花見客が訪れます。参道の端の川内川沿いに第一の鳥居があります。この参道の両側には、かつて寺院が立ち並び「新田神社十二坊」と称されていました。
降来橋と第二の鳥居の間の新降来橋は、昭和六十一に銀杏木川に架けられました。