常温常湿希望

温度20℃湿度50%が理想です。

動物集合@東京国立近代美術館工芸館

東京国立近代美術館工芸館に行きました。
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この赤レンガ造りの美しい建物は、旧近衛師団司令部庁舎を保存活用したもので重要文化財に指定されています。明治43(1910)年、陸軍技師田村鎮(やすし)が設計した2階建煉瓦造で、正面中央の玄関部に小さな八角形の塔屋をのせ、両翼部に張り出しがある簡素なゴシック様式です。

今回のお目当ては動物集合展。
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www.momat.go.jp

染織と動物

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《Nature's Talk '93-1 中島直美 1993 綿、シルクスクリーン
白と黒のペンギンの群れ。写真でぼやけて見えるのは二枚重ねになっているせいで、ペンギンの布の上に地球の模様の布が重ねてある。

身近な動物

《猫に小判 結城美栄子 2004 陶器》
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難しそうな本の上で丸くなって眠る猫。遠くてよく見えなかったけれど、本の表紙にお金が描かれていそうな。

《猫 大塚茂吉 2005 陶、テラコッタ
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横から見ると実に姿勢がよくて、微笑ましい。

《雪装雑木林月夜飾箱 増田三男 2002 銀、鍍金》
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森の中、雪に黒々とつく兎の足跡。側面に穴の中で休む兎。このラグビーボールのような半月は抱一や其一の絵でよく見かける。
上弦の月下弦の月と言っても弦が名前の通りの向きになるのは、月が沈む頃だけ。上弦の月は昼間に出て夕方正中になって夜中に沈む。下弦の月は夜中に出て明け方に正中になり昼間に沈む。この作品の月は左東向きなので上弦の月。弦が下を向いているので昼間の月。

空想の動物

《銀打出花器 濳龍 大角幸枝 2009 銀、金箔》
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龍の蛇腹を思わせる形。

《野獣 チェスワフ・ズベル 1992 ガラス、ハンマーによるカット、油彩》
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一部拡大

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ハンマーでガラスをカットするという技法で作られている。よく見ると、一部に落書きチックな絵が描いてあっておもしろい。

《十二の鷹 - 参、伍、六 鈴木長吉 1893 青銅、漆、鋳造、鍍金(金、銀、銅、赤銅、四分一)、象嵌(金、赤銅、真鍮) 》
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銅などの材質で作った12羽の鷹のうちの三羽。鈴木長吉は実際に鷹を飼って写生を繰り返したという。1983年のシカゴ万博博覧会に出品し高い評価を得た。

魚、虫、その他の動物

《白地黒絵魚文扁壺 石黒宗麿 1940 陶器》
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白化粧の扁壷(へんこ)に鉄絵具で魚文がくっきりと描かれている。鱗やひれは鋭利な道具で引っかく「掻き落とし」の技法による。内側にも釉薬がかけられている。

《蒔絵棗 金魚 田口義明 2004 漆、蒔絵》
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《蛍蒔絵高棗 中野孝一 不明 漆、蒔絵、螺鈿

《蒔絵螺鈿平棗 水映 室瀬和美 不明 漆、蒔絵、螺鈿

《秋蒔絵棗 田口義明 不明 漆、蒔絵、螺鈿

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《ブローチ 桑の木と甲虫 ルネ・ラリック 1900 金、七宝、真珠、オパルセント・ガラス》
《ブローチ 翼のある風の精 ルネ・ラリック 1898 金、七宝、ダイヤモンド》

 

《野原蒔絵小箱 田口善国 1968 漆、蒔絵、螺鈿
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印籠蓋造り、長方形の小箱の蓋面と二つの長側面は、金地に銀平文を点々と引いて野原にそよぐ薄を表現している。短側面は青貝の細片が敷き詰められており、そこにバッタ四匹が黒漆で高上げにしてある。

 

れいなもの、かわいいもの入れ混じっての約130点。一部を除いて写真撮影可。一時間半の滞在でした。出展品の他にも、工芸館は椅子などがとても素敵なので、座り心地を確かめたりと、そっちにも興味を惹かれました。

漂流ものがたり@国立公文書館

久しぶりの国立公文書館です。

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企画展漂流ものがたりが開催されていました。
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 四方を海で囲まれた日本に暮らす人びとは、中国、ベトナム、ロシア、アメリカ、さらには無人島と、数多くの漂流・漂着を体験してきました。一方、その逆もしかり。島国日本には異国から多くの船や人が流れ着きました。 本展示では、アジアや欧米へ漂流した日本人の体験や、日本に漂着した異国人への幕府の対応、現地の人々とのふれあいの記録などを、当館所蔵資料からご紹介いたします。

Ⅰ 異国への漂流・漂着

アジアへの漂流

寛永21年(1644)越前国の商人竹内藤右衛門ら58名が韃靼国(清国)へ漂着。韃靼国が明国を破り北京への遷都を進めている最中を目撃。
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《韃靼国漂流記 文鳳堂雑纂》
漂流民たちが盛京から北京へ連行される際、大きな城壁を通過。「韃靼と大明との境に石垣を築申候、万里有之よし、高サ十弐三間程」とある。

若宮丸の世界一周

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「環海異聞」(かんかいいぶん)
 寛政5年(1793)11月に陸奥国石巻を出航した若宮丸は、翌年アリューシャン列島の島に漂着。津太夫ら乗組員たちは、ロシアに8年滞留したのち、レザノフに伴われて、世界周航をめざす船に乗り込み、マゼラン海峡、ハワイ、カムチャッカを経て長崎へ帰国しました。本書は津太夫ら帰国者の見聞を、蘭学者の大槻茂質(しげかた、玄沢)が聞き取り、まとめた書です。ロシアの社会や風俗等を絵入りで紹介するほか、長崎における日露間のやりとりについても記しています。

《環海異聞 大槻茂質》
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石巻を出て半年、アリューシャン列島に漂着。島民が食料や寝床を用意してくれるも、異国人への気味悪さからその日は寝ずに過ごす決意をするも、数ヶ月の漂流で「至極疲候て、不覚」にも寝てしまったそうだ。

《環海異聞 大槻茂質》
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津太夫らは首都ペテルブククに上京するように命じられ、皇帝アレクサンドル一世に謁見して帰国を許される。病気で脱落したものやロシアへの残留を希望した6名を除き4名が帰国を希望した。軍艦で出航、デンマークに寄港、イギリス、カナリヤ諸島、ブラジル、ハワイを経て長崎に到着。実に11年ぶりの帰国だった。

Ⅱ 予期せぬ来訪者

うつろ舟の女

「弘賢随筆」(ひろかたずいひつ)
 幕臣で能書家、故実家、蔵書家の屋代弘賢(やしろひろかた、1758~1841)の手もとにあった雑稿を取りまとめて、編綴したものです。その大部分は毎月15日、弘賢の知友が会合して、持ち寄りの文章を披露し合った、三五会の会員たちの草稿からなっています。今回展示するのは第55冊目に所収の「うつろ舟の蛮女」。享和3年(1803)2月22日、常陸国の沖を漂流していた奇妙な船と、船中にいた異国女性の絵が描かれています。

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改元甘露草(叢)》
元禄11年(1698)5月、三河国渥美郡吉田浦(現在の愛知県豊橋市)に着岸したウツホ舟の記録。舳先に男の首をさらしていた。舟の中には女が一人。詮議しようにも言葉が通じないため長崎へ送還した。

《弘賢随筆》
享和3年(1803)2月22日、常陸国はらやどりという浜に一艘の船。香合のような形で長さ3間(約5.5メートル)あり、上はガラス障子で底は鉄板がはめられていた。中には水と食料と二尺四方(60センチ四方)の箱を持った一人の女。地元の古老の話では、これは蛮国の王の娘で嫁ぎ先で密通し流されたものだろうという。箱の中は密通した男の首だろうとのこと。幕府に連絡すると長崎への輸送の諸経費がかかるため、再び沖に流したという。

Ⅴ 大黒屋光太夫の漂流記録

漂流から帰還まで

天明2年(1782)伊勢国白子村(現在の三重県鈴鹿市白子)の神昌丸(乗組員17名)は、江戸に向かう途中に遭難。およそ半年漂流した後アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。現地人アレウト族やロシア人狩猟団の世話を受けながら生活していた。天明5年にロシア人狩猟団の迎えが来るも接岸に失敗して船が大破。話し合いの結果、自力で船を建造し天明7年7月18日、ロシア人25名、光太夫ら9名と光太夫の猫とでアムチトカ島を出港した。4年1ヶ月に及ぶ孤島生活だった。
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天明7年8月2日、ロシアのカムチャッカに到着。ここで越冬し、この地で元の乗組員3名が死亡。翌年6月15日に光太夫6名とロシア人15名がイルクーツクへ向けて出発。寛政元年(1789)2月9日にイルクーツク到着して、総督府へ帰国願を出す。それから帰国が許されるまでイルクーツクで生活する間に2人が洗礼を受けて帰化。寛永3年10月20日、エカテリーナ二世に謁見し帰国をゆるされる。翌年9月13日オホーツクから光太夫ら3人が、キリルの息子アダム=ラクスマンを遣日使節として伴って出港。10月9日根室に到着後に小市が死去。日本生還を果たしたのは、光太夫と磯吉の二人だけだった。

 

《北槎聞略(ほくさぶんりゃく)》

天明2年(1782)、江戸への航海中に遭難、漂流の後ロシアに渡り、寛政4年(1792)に帰国した伊勢国白子の神昌丸の船頭大黒屋光太夫等の体験を、蘭学者で幕府奥医師桂川甫周(かつらがわほしゅう)が幕府の命を受けて聴取したロシアの地誌・見聞録です。 ロシアの政治・経済・社会・物産・文字・言語などが詳細に記録されているほか、器物の写生図、地図の模写も含まれています。寛政6年(1794)8月に完成し、幕府へ献上されました。平成5年(1993)、重要文化財に指定されました。

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遭難の状況から仲間の怪我、病気のことまで克明に記されています。

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10年ぶりに日本に生還した光太夫と磯吉。

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館内では大黒屋光太夫についてのビデオ(約30分)が上映されていました。日本の開国を求めた最初の黒船は、光太夫を送ってきたエカテリーナ号であるという話が面白かった。帰国してからの光太夫の江戸暮らしなども紹介されていました。

今度、おろしや国酔夢譚を観ようと思います。

ハイブリッドな絵師・河鍋暁斎-狩野派として、浮世絵師として@Bunkamura ザ・ミュージアム

河鍋暁斎展に引き続き、山下祐二氏によるトークショーにも行きました。2月末の話ですが、記憶のあるうちに記事に残しておこうと思います。

www.bunkamura.co.jp

ひどく寒い日だったので、寒いところで並ぶのは嫌だなと思って、近くのドーナツ屋さんで時間をつぶし、開場時間ギリギリに行ったら、受付場所から駐車場にまで続く長い行列になっていてげんなりしました。皆さんお早い。

会場の写真を撮らなかったので、アイキャッチとしてポスターを撮影。

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暁斎はハイブリッドな絵師。 7歳で国芳、10歳で狩野派に入門した。現代で言えば漫画家で東京藝大を出てるみたいな話。19歳で狩野派から独立したのも、昔なら許されないことで、それだけ、幕末で狩野派の権威も揺らいでいたということ。ネイティブで筆を持つ最後の絵師。幕末と明治を生きた、いろんな意味で二重性を持つ。

以下、スクリーンに投影されたものを思い出せる限り。
暁斎画談内外篇》《大和美人図屏風》《暁斎画日記》《Kiyosai Sensei. At Nikko. Augst 5th ジョサイア・コンドル》《鯉之図 ジョサイア・コンドル》《枯木寒鴉図》《枯木に夜鴉》《地獄太夫と一休》《幽霊図》《幽霊に腰を抜かす男》《百鬼夜行図屏風》《放屁合戦絵巻》《新富座妖怪引幕》《閻魔大王浄玻璃鏡図》《地獄戯画(蕎麦を食べる閻魔と付き人)》《地獄極楽めぐり図》《花鳥図》《野菜づくし、魚介づくし》《釈迦如来図》《白鷲に猿図》《山姥図》《北海道人樹下午睡図》

今回、山下先生が強調されていたのは、東博暁斎展開催をってことで、いっそ国民運動やりましょうよって話でした。今回も大いに笑いました。

ひどく寒い日だったので、エキナカであんかけうどん。

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手延べうどん 水山

食べログ 手延べうどん 水山

これぞ暁斎!展@Bunkamura ザ・ミュージアム

河鍋暁斎展を観に渋谷の東急bunnkamuraに行きました。河鍋暁斎の絵が好きなので、この日を長く待ちわびていました。いよいよ暁斎、やっと暁斎
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東急百貨店には静岡のつるし雛が飾ってありました。一つ一つがかわいらしくて上ばかり見て、ショーウィンドウ素通り。
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Bunkamura ザ・ギャラリーです。
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www.bunkamura.co.jp

会場はそれほど混雑しておらず、ゆっくりと鑑賞できました。以下、気になったものをメモとして残します。

 

序章 出会い ゴールドマンコレクションの始まり

 ハーバード大学で美術史を学んだイスラエル・ゴールドマン氏は、浮世絵に興味を抱き、ロンドンで画商の道を歩み始めました。江戸時代の挿絵本、浮世絵の大家ジャック・ヒリアー氏の薫陶を受け、日本文化に対する深い知識を育みます。
 あるときゴールドマン氏はオークションで暁斎の「半身達磨」(第6章)を入手しました。その質の高さに驚愕した彼は、その後「暁斎」の署名の入った作品を意識的に集めるようになりました。

4《鯰の船に乗る猫 明治4-12(1871-79)年頃 紙本淡彩》
川に腹を出して浮かぶ鯰の上には、煙管を手にしてくつろぐ大きな猫。柳の生える岸辺、二匹の小さな猫が鯰のヒゲを引っ張って進む。

5《狐の嫁入り 明治4-12(1871-79)年頃 紙本着彩》
二匹の狐が向い合ってかしこまった顔をしている。 

10《鯰の曳き物を引く猫たち 明治4-22(1871-89)年 紙本着彩》
行列の先頭の猫は旗代わりに三味線を掲げている。4と同じく鯰のヒゲを引っ張って進む。猫らは口を開けでのんきそうな表情。地震を起こすといわれている大鯰を瓢箪で押さえ込むのは、大津絵の瓢箪鯰としてよく描かれたもの。三味線は猫の皮で出来ていることから芸者を表し、鯰にはヒゲがあることから役人とも見れる。

第1章 万國飛 世界を飛び回った鴉たち

明治3(1870)年の秋、上野の料亭で催された書画会で、例によって大酒した暁斎(当時は狂斎)は、新政府の役人を風刺する滑稽画を描き、その場に居合わせた警吏に捕縛されてしまいます。
入牢3か月、鞭打ち50回という刑を受け、ようやく釈放されました。暁斎はこの恥辱を深く後悔し、筆名を「狂斎」から「暁斎」と変えます。
この筆禍事件が災いしてか、明治10(1877)年に開催された第1回内国勧業博覧会暁斎が呼ばれることはありませんでした。しかし4年後の第2回内国勧業博覧会では出品が許可され、「枯木寒鴉図」など4点を出品、この図は事実上の最高賞である妙技二等賞牌を得ました。当時すでに暁斎に注目していた外国人たちは、こぞって鴉の絵を求めました。鴉は暁斎を一挙に海外に知らしめた作品となり、暁斎は海外に飛んでいく鴉を思い、鴉と万国飛の文字を組み合わせた印を作りました

11《枯木に鴉 明治4-22(1871-89)年 紙本墨画
第二回内国博の出品作《枯木寒鴉図》とよく似た構図の作品。尾羽の輪郭がとてもきれい。この手のものを何枚も書いたらしい。
《枯木寒鴉図》は100円という破格の値段で榮太樓本舗の細田安兵衛が買ったことから「百円鴉」とも呼ばれている。この受賞で暁斎は海外にも名を知られるようになり、飛んでいく鴉を思って萬國飛の印(向き合う二羽の鴉の間に萬國飛の文字がある方印)を作った。

12《枯木に鴉 明治4-22(1871-89)年 藍紙墨画、金砂子》
11とほぼ同じ構図だが、金砂子と藍紙で薄闇を表現したもの。

15《柿の枝に鴉 明治4-22(1871-89)年 紙本淡彩》
柿のヘタの黒ずみ(へたすき)がよく描かれている。

16《柿の枝に鴉 明治4-22(1871-89)年 紙本淡彩》
怒り顔の鴉。赤い実と描かれる鴉はどれも警戒している傾向。

17《日輪に鴉 明治4-22(1871-89)年 紙本淡彩》
日の出と三羽の鴉が描かれた揃いの四幅が並べて展示されているが、実際のところ四幅なのか定かでない。それぞれ、岩肌に蔦、岩肌に笹、柳、梅。三羽のうち二羽が同じ方を向く。日輪と萬國飛の落款の組み合わせがめでたい印象を与える。

21《鴉と鷺 明治18-22(1885-89)年 紙本墨画
梅の枝に立つ黒い鴉と柳の枝に立つ白い鷺の二幅。二羽が向き合うように展示されていた。

22《烏瓜に二羽の鴉 明治4-22(1871-89)年 絹本着彩》
冬、枯葉のつく柿の木にからまる烏瓜。くるくると螺旋になった巻きひげが愛らしい。木に止まり遠くを見据えて威嚇するように鳴く鴉。頭から背にかけての輪郭が美しい。完熟した烏瓜の実と萬國飛の印の朱色が映える。

23《月下 梅に鴉 明治4-22(1871-89)年 大々判多色摺版画》
鴉と重なるように月を表す円弧。梅の古木の強い黒が印象的。

第2章 跳動するいのち 動物たちの世界

暁斎は鴉をはじめ、鷺、虎、象、狐から鼠や猫、また蛙や昆虫などの動物を自由自在に描きました。その多くは実物の写生に基づいています。
暁斎の画塾では写生が重視されており、暁斎の伝記を載せた『暁斎画談』には、自宅の庭に様々な動物を飼って、弟子たちがそれぞれ好きな動物を描く場面があります。

27《雨中の蓮池に降り立つ白鷺 明治4-22(1871-89)年 紙本墨画
斜めに走る雨。強い風にうつむく蓮。茎の棘が強調して描かれている。白鷺は足をそろえて急旋回し、降り立つ地点を見据えている。

29《象 明治4-22(1871-89)年 紙本淡彩》
太い筆で一気に描かれている。象の肌の質感と密な睫をした悩ましげな瞳がとても写実的。

30《月下猛虎図 明治4-22(1871-89)年 絹本淡彩》
月に照らされて水面に写る自分の顔を狙う虎。象と比べると写実性に欠け、伝統的な虎の描き方に近い。象と違って実物を見ていないのかもしれない。

32《枇杷猿、瀧白猿 明治21(1888)年 絹本着彩》
枇杷を差し出す猿と、滝を渡る蔦にぶら下がる白猿が描かれた二幅。川べりの木に座る猿は牡蠣(?)の器に入れた枇杷を掲げ持つ。豊かな冬毛が質感よく描かれている。赤い顔が表情豊かで、見ているとほほえましい気持ちになる。滝の白猿の手足の縮こまり具合が写実的。

34《虎を送り出す兎 明治11-12(1878-79)年頃 紙本墨画
三羽の兎に誘導されて虎が送り出される。寅年から兎年への交代の絵。虎の前後に兎。背には鞭を持つ兎。鳥羽筆意と書かれていることから、鳥獣戯画を意識したもの。

36《鏡餅にねずみ 明治20(1887)年 紙本着彩》
遠景に日の出、鏡餅の上下にとても愛らしい鼠。

40《蛙の放下師 明治4-22(1871-89)年 紙本淡彩》
放下は室町時代から続く大道芸のひとつ。蛙の演者で長竿の曲芸を描く。竿も太鼓も三味線も扇子も蓮でできている。大蛙は片手に扇子を持って片足立ちになり、鼻先に長竿を立ててバランスを取る。長竿の途中によじ登る蛙。先端の花柄に三味線を構える蛙が座る。大蛙の足元に太鼓を叩いて大声を出す蛙。

42《月に手を伸ばす足長手長、手長猿と手長海老 明治4-22(1871-89)年 紙本淡彩》
足長人の背に手長人。その上に手長猿、手長海老と続く。手長海老の伸ばした鋏の先には月の円弧。左下の足長人から斜め上の月まで視線が誘導される。

43《動物の曲芸 明治4-22(1871-89)年 紙本着彩》
蝙蝠、猫、土竜、狐、鼠が衣装を着て、三味線や太鼓を鳴らし、ぶらんこ、綱渡り、梯子等の曲芸をする。二十日鼠以外の鼠も赤目。大入の扇子。狐が観客。

44《鳥と獣と蝙蝠 明治4-22(1871-89)年 紙本着彩》
イソップ物語「卑怯な蝙蝠」の挿絵。様々な鳥と獣が戦っているのを、蝙蝠が様子をみている。

45《獅子と熊と狐 明治4-22(1871-89)年 紙本着彩》
イソップ物語の挿絵。手前に兎を咥えて逃げる狐、背後に熊と戦う獅子。獲物は兎でなく子山羊だったような。

46《『通俗伊蘇普物語』 明治8(1875)年 多色摺版本》
「猿と二人の旅人」の挿絵。猿の群れに土下座する二人の男。

47《『暁斎酔画』初編、二編、三編 明治15,17,23(1882,84,90)年 多色摺版本》
三編「虫の遊」土竜にしがみつく蛙。蝙蝠が行司。鼠が蝙蝠の背中を瓢箪で押さえつける。兎の背に乗って駆ける蛙。蛙を乗せた柿の籠を運ぶ、大蛙と兎。

52《眠る猫 明治18-22(1885-89)年 団扇判錦絵》
耳を立て少し警戒を残しながら眠る三毛猫。白毛部分は空摺り。でっぷり太った猫。首の下に余った皮がやけに生々しい。

55《とくわかに五万歳(徳若に御万歳) 明治4-22(1871-89)年 色紙判錦絵》
徳若に御万歳は、いつも若々しく長寿を保つようにという祝いの言葉。書を広げた机の上の蟹の手には扇子。机の下でむずかしい顔をする亀たち。もしかして、説法を説く蟹ってこと?万年の寿命を持つという亀は、てっきり五匹と思ったら、一匹の背中に小亀がいて六匹いる。

63《〈天竺渡来大評判 象の遊戯〉 文久3(1863)年 大判錦絵》
さまざまな曲芸をする象。鼻息で灯を消す、くしゃみの響き等。

第3章 幕末明治 転換期のざわめきとにぎわい

江戸から明治への転換を経験した人々は、大きな断絶と価値観の変化を受け入れざるを得ませんでした。しかし暁斎は冷静に時代を観察することのできた、数少ない人間でした。
彼はいかに周囲が変わっても人間の本質には変わりがないことを知っていました。西洋の船に乗る外国人、博覧会場の日本人と西洋人、今戸で瓦を焼く職人や渡し船に乗る人々などが、まったく同じ視線で描かれています。

70《各国人物図 明治4-22(1871-89)年 紙本淡彩》
象や駱駝に乗る人、猿をつれた人、長毛犬をつれた西洋人の親子、サイトハウンドをつれた弁髪中国服の人等、様々な民族が描かれている。

71《隅田川今戸焼瓦焼きと渡し 明治3(1870)年以前 紙本着彩、金泥》
手前に梅、転ぶ子供、藁を積んだ山の上で凧揚げ。その奥の釜で瓦を焼いている。川の向こう、遠景に山影と鳥の群れ。釜から立ち上がる煙と凧糸で視線が上に誘導される。

73《野菜づくし、魚介づくし 明治18(1885)年 紙本着彩》
様々な野菜と魚介を描いた二幅。魚の方で河鍋暁斎カサゴを描いている。他にも川端玉章、渡辺省亭、松本楓湖、野口幽谷等が描いている。野菜の方は、佐竹永湖、滝和亭、柴田是真、柴田真哉などが描いた。

75《大仏と助六 明治4-22(1871-89)年 紙本淡彩》
縦長の本紙全長に渡る大仏の顔。大仏の唇のあたりで和傘を手に見栄を切る助六助六は歌舞伎の人気演目。大仏のまなざしが静かに助六に注がれている。

78《猫と鯰 明治4-22(1871-89)年 紙本着彩》
鯰がヒゲを伸ばして、川縁の猫に何かを渡そうとしている。猫は芸者、鯰は役人と見立てることもある。鯰が渡しているのは、恋文か金か。そういえば、鯰と柳の組み合わせが多い。柳の下の泥鰌ではなく鯰か。

79《居眠り猫と鯰 明治4-22(1871-89)年 絹本着彩》
酒瓶を横に布団にもぐりこんで寝ている鯰(役人)と、そのヒゲを抜こうと大きな毛抜きを構える八匹の猫(芸者)。

80《鍾馗と鬼の学校 明治4-22(1871-89)年 紙本着彩》
先生の鍾馗が拷問道具の図表を指して説明し、生徒の青鬼が手を上げて質問している。

82《雀の書画会 明治4-22(1871-89)年 絹本着彩》
雀たちが書いたり眺めたりしている。雀の丸まった頭が坊主頭のように見え、かしこまった雰囲気なのが面白い。

84《墨合戦 明治4-22(1871-89)年 紙本着彩》
墨を塗りあったりしているのが、実に楽しそう。 

92《名鏡倭魏 新板 明治7(1874)年 大判錦絵三枚続》
右端に「名鏡ノ竒特ニテ悪魔外道ノ類恐立させる図」とある。中央で鏡を叩いているのは名刀工の栗原信秀。右で鏡に光を反射させているのは名研師の本阿弥平十郎。和洋の妖怪、悪魔が逃げ惑う。左に「ロンドン新聞ニヽスル図」とあり、鷲鼻で緑の小袖に水色裃男など、暁斎旧知の英国人ワーグマンによる「ジャパン・パンチ」のキャラクターが登場している。

93《不可和合戦之図 明治10(1877)年 大判錦絵三枚続》
不可和(かわず)つまり蛙の合戦。中央では蛙の将軍が蝦蟇蛙に乗って蓮葉の采配を振るっている。兵士は蓮の武器を手にして気勢を上げて突進している。下には蓮根の大砲もある。緊張感あふれる場面だが、どの蛙も瞼が半分閉じて眠たげな表情なのがよい。

97《〈家保千家の戯〉天王祭/ろくろ首 元治元(1864)年 大判錦絵》
南瓜の擬人化。天王祭は、天王と書かれた扇子を手にして踊ったり、南瓜の花の神輿を担ぐ南瓜人が描かれている。ろくろ首は、川縁で長く伸びた弦の先についた南瓜に驚いて、南瓜人三人が大慌てで逃げ出している。署名は畑狂人、印章も南瓜。
暁斎が7歳で弟子入りした最初の師匠、歌川国芳のほふづきづくしを思い出させる。

101《〈暁斎楽画〉第三号 化々学校 明治7(1874)年 大判錦絵》
化け物たちの学校。上では閻魔大王がパネルに描いた地獄を講義中。画面中央では河童達がシリコダマやキウリとローマ字を習っている。暁斎の手にかかると動物はおろか妖怪までも人間臭いのが、楽しい。

笑う 人間と性

暁斎春画は数こそ少ないですが、歌川派浮世絵師の描く春画と比して際立つ特徴があります。それはユーモアです。
春画は笑い絵とも言われますが、暁斎の場合は文字通り笑いに溢れています。

春画は笑いのコーナーです。押印も実にわかりやすい。心の中でケラケラ笑っていたのですが、人前をはばかって、まじめな顔をして鑑賞しました。

第4章 戯れる 福と笑いをもたらす守り神

暁斎にとって、七福神は特別な意味を持っています。これに鍾馗風神雷神、山姥などを含めても良いかもしれません。七福神鍾馗は、暁斎の子飼いの役者たちです。

104《鍾馗と鬼 明治4-22(1871-89)年 紙本着彩、金泥》
振り上げた右手に剣で青鬼(ほぼ桃色だけど)を狙い、左手で赤い小鬼の襟首をつかんでいる。小鬼たちの指は三本。鍾馗の髪や髭、緑色の衣が跳ね上がり、下から大風が吹いている。背景、剣、衣の裾にも金泥が使われていて豪華な印象。
鍾馗は唐の玄宗皇帝の夢の中に現れた子鬼を退治して帝の病を治したとされる神鬼。鍾馗の絵は北斎、応挙、仙厓などを見ているが、私の頭の中で、どうも北斎の描く張飛とごちゃごちゃになっているような。

105《崖から鬼を吊るす鍾馗 明治4-22(1871-89)年 紙本淡彩》
鍾馗が小鬼をつるして、断崖にある薬草を採らせている。細い綱が心細いし、鍾馗の綱を持つ手がいまいち真剣味なくて、使われている小鬼が哀れ。鍾馗の方がよほど鬼だ。

106《鬼を蹴り上げる鍾馗 明治4-22(1871-89)年 紙本淡彩》
鍾馗、とうとう鬼を蹴って遊び始めた。鍾馗の躍動感がすばらしい。帽子の紐や衣の跳ね上がり。頭上高く飛ばされた小鬼の衣の線はかすれて二重に割れ、まるでカメラのシャッタースピードが遅かったような、速度感を生んでいる。

107《鍾馗と鬼の相撲 明治4-22(1871-89)年 紙本淡彩》
和気藹々と相撲を取っている。どう見ても仲良し。

109《鬼をおとりに河童を捕まえようとする鍾馗 明治3(1870)年以前 紙本着彩》
沼の中、小鬼に尻まくらせてそれを獲物に罠をしかけ、河童を取ろうとしている。鍾馗は身を隠して河童が罠にはまるのを待っている。ホント、小鬼かわいそう。

116《貧乏神 明治19(1886)年 紙本着彩》

骨が浮き出た男。髪も髭も貧相。右手に杖、ぼろぼろに破れた衣、背中には破れ傘や破れ団扇を担いでいるのが、縄でできた小さな輪の中に立たされている。封じられた?

118《猩々の宴会 明治7(1874)年頃 絹本着彩》
大勢の猩々らが、發光酒と書かれている大甕を囲んで宴会している。実に楽しげ。猩々は赤い髪をして猿のような姿の酒好きな中国の妖怪。

第5章 百鬼繚乱 異界への誘い

暁斎は写生を最も重視していましたが、実存しない幽霊や百鬼、閻魔や鬼などはどのように描いたのでしょうか。後妻の阿登勢が亡くなったとき、暁斎は彼女を抱き起してその顔や姿を写生したといい、出品作の「幽霊図」はその写生を元に描かれたと伝えられています。

125《幽霊図 慶応4/明治元-3(1868-70)年頃 絹本淡彩、金泥》
幽霊物も得意とした歌舞伎役者五代目尾上菊五郎から依頼された幽霊画。行灯の光に浮かび上がる、骨が浮き出るほど痩せた女の幽霊。右目は青い白目に金の瞳、左目は影になって銀色。光の当たっている方の顔と右腕は胡粉で塗られている。着物には薄く草の模様が見える。足元は消えている。

126《幽霊図下絵 慶応4/明治元-3(1868-70)年頃 紙本墨画
幽霊画の下絵。線を修正する時は胡粉を縫ったり、紙を貼ったりしている。下絵では着物の裾まで描かれている。

127《幽霊に腰を抜かす男 明治4-22(1871-89)年 紙本着彩》
草むらから飛び出してきた幽霊に驚いて、腰を抜かしてひっくり返る男。幽霊は黒い影で表されている。筆が走り痕がかすれて、霊が出てくる勢いがよく表されている。

128《地獄太夫と一休 明治4-22(1871-89)年 絹本着彩、金泥》
黒衣の一休は払子を持ち、腰掛けている椅子に朱太刀を立てかけているのが、禅展で見た頂相(135)を思い出させる。蓮の衝立の前、座布団に座る地獄太夫の着物は吉祥模様が緻密に描かれている。歌舞伎の一休地獄噺を元にした画題。人気だったらしく何作も描かれている。

129《地獄太夫と一休 明治4-22(1871-89)年 絹本着彩、金泥》
月と秋草が描かれている屏風の前に地獄太夫。その周りを小さな骸骨が飛び回る。大きな骸骨は片膝をついて皮も線もな三味線を弾いている。その頭蓋骨の上では黒衣の一休が踊り狂っている。一休が右手に持つ扇子も骨だけ。地獄太夫の打ち掛けや帯には炎のような赤珊瑚、七福神、独楽、小判、寿の字が描かれている。小袖には黄色い花模様。南瓜の花?

130《閻魔大王浄玻璃鏡図 明治4-22(1871-89)年 絹本着彩、金泥》
浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)は、閻魔大王が裁く時、死者の善悪の見きわめに使用する鏡。浄玻璃鏡に向き合って映し出された女は、向き合ったそのまま。罰される必要のない清らかな女が誤って地獄に来てしまったのか、閻魔大王が困っている。その後ろでは、青白い罪人の髪を持つ鬼が順番をまって控えている。

142《百鬼夜行図屏風 明治4-22(1871-89)年 紙本着彩、金砂子》
六曲一双の屏風。百鬼夜行といえば絵巻が多いが、暁斎は屏風に描いた。宵の右から夜明けの左に向かって、ユニークな姿形の妖怪が進む。今回の展示物の中では最も大きい。画面上下に金砂子。

147《〈暁斎楽画〉第二号 榊原健吉山中遊行之図 明治7(1874)年 大判錦絵》
右手に扇、左手で着物の袖をたくし上げて見得を切る男。足元に山犬、土竜、尻餅をつく骸骨。猿、狐、狒々が逃げていく。山中、妖怪の脅しにも動じない鍵吉の豪胆さを描いた画。
榊原健吉は明治の剣術家。明治9年(1876年)の廃刀令以後、刀の代わりに帯に掛けるための鉤が付いた杖のような木刀を所持するようになる。これが倭杖(やまとつえ)。そして脇差代わりに差したのが木製の扇で頑固扇というもの。最後の侍と言われた榊原謙吉の晩年のトレードマークとなった。
骸骨の腰のあたりにある道具は何でしょうね?

第6章 祈る 仏と神仙、先人への尊崇

暁斎は達磨図を多く描きました。狩野元信、常信の達磨、長谷川等伯や曽我蕭白の達磨、そして白隠による達磨など、名品と言われる達磨図は数多くありますが、暁斎の達磨図はそれらの系譜に連なっています。
もし暁斎が他の無数の作品を描かずに、達磨図だけを残していたとしたら、彼に対する評価はまったく異なったものとなっていたでしょう。

154《李白観瀑図 明治4-22(1871-89)年 絹本淡彩》
岩肌を荒々しく黒く塗り、水流を地の色で残し激しい瀑布を描いている。狩野派の唐代の詩人李太白が滝を見て吟ずる姿を描く。古くから多くの絵師がこの画題で描いている。荒々しい筆の勢いに目を奪われます。

155《中国山水図 明治4(1871)年 絹本淡彩、金泥》
米点皴を使った山水画。154の筆の勢いで書いたものとのギャップに暁斎の画風の幅広さを感じる。

156《雨中山水図 明治17(1884)年 絹本淡彩》
またがらりと印象を変えて、重く湿った空気を感じさせる溌墨的な山水図。伝統的なタッチもお見事。

159《半身達磨 明治18(1885)年 紙本墨画
達磨の顔は毛一本一本を描くほど丁寧に、衣は太い筆で大胆に。禅展で達磨の画はたくさん見ましたが、暁斎の描く達磨も良いなあ。師の前村洞和が暁斎の画才を賞して画鬼と呼んだというのはよく知られていますが、まあとにかく何を描いても上手いことに驚きます。

162《羅漢と鬼 明治4-22(1871-89)年 紙本着彩金泥》
洞窟で瞑想する羅漢に向かって鬼が槍を突き出している。鬼が手にする三叉槍の先には鼠の頭が刺してあり、それで座禅の邪魔をしようとしているのか。鬼の腰紐がトリコロールカラーでおしゃれです。

166《龍頭観音 明治19(1886)年 絹本着彩、金泥》
暁斎仏画も得意で、特に達磨と観音をよく描いた。晩年には日課観音として毎日観音を描いていたという。この画は日課観音とは別に丹念に描き込んだもの。暗雲の中、体をくねらせて進む龍の頭上に観音が立つ。美しく慈愛に満ちた表情、風にたなびく衣、龍の固そうな鱗。龍頭観音は姿を変えて現れる三十三観音の一つ。

167《寒山拾得 明治4-22(1871-89)年 絹本墨画
寒山と拾得を描いた一対。二人はよく卑俗な顔で描かれるが、暁斎のは穏やかな表情をしていて、のどかな雰囲気。寒山は遠くを、箒を持つ拾得は上を差し示し動きを見せている。二人を模式化したような押印。
寒山と拾得は唐の時代、乞食同然の暮らしをする非僧非俗の風狂の徒だが、試作をよくし、仏教の哲理に深く通じていた。宋代以後、彼らに憧れる禅僧や文人によって格好の画題となった。寒山は木靴を履き、拾得は箒を持ってよく描かれる。

169《霊昭女 明治17(1884)年 絹本着彩、金泥》
女が背中に籠を担ぎ、左の手のひらに銭、腰に瓢箪を下げている。結い上げた髪がキラキラと光る。霊昭女は唐代の龐居士の娘で、竹籠を売って両親に孝養を尽くしたと言われる。古くから禅宗の画題として用いられ、竹籠を下げた礼拝像風に描かれることが多い。

170《祈る女と鴉 明治4-22(1871-89)年 絹本着彩》
兵庫髷に髪を高く結い上げた遊女が外に向かって手を合わせている。外には画面半分を占めるように大鴉が描かれている。着物の青い紫陽花の柄、腰紐の赤が目を惹く。部屋の奥には着物を運ぶ禿(かむろ)がいる。着物の襟首と背景の襖のあわせが一致していて、首のない死者を運んでいるのかと錯覚した。

171《石橋図 明治3(1870)年 木板着彩、金泥》
歌舞伎石橋(しゃっきょう)の舞台を木の板に描いたもの。市松模様で縁取られた赤い舞台の上で、獅子姿で赤い髪を振り回す役者。足元には雪と白牡丹。舞台の下から眺めるのは寂昭法師。

 

開催して最初の週末の午後、会場はそれほど混雑していませんでした。たまに絵の前に出るのに待つことはあっても、人の頭越しというような羽目になることはありません。ただし、小さい絵が多いので混雑するとすぐ行列になってしまうだろうとは思いました。一回り2時間半。今回の展示物は、単眼鏡をほとんど使わずにすむタイプの絵がほとんどだったので、さほど疲労も感じず、休憩なしに一気に見ることができました(こうブログを書きながら降り返ると、もう少し、こってりした絵も見たかったな)。

会場を後にして、もっちりピザ。
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ここは半端な時間のランチにもってこい。今回もほどほどに空いてました。

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雪国館

新潟県大沢温泉に行く途中、越後湯沢駅で途中下車しました。
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駅から徒歩7分湯沢町の歴史民族資料館、雪国館に到着。
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www.e-yuzawa.gr.jp

雪国館は、湯沢が舞台となった川端康成の小説「雪国」と、雪国湯沢の暮らしぶりや歴史を中心とした展示があります。

3階 湯沢町歴史民俗コーナー

雪国の四季折々の生活で用いる道具がところ狭しと展示されています。
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秋のくらし。
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奥に移っている巨大なわらの敷物は、地元の方が二ヶ月かけて作ったもの。最初壁掛けにするつもりが、作ってみたら大きかったので敷物にしたんだそうです。手前で影になっていますが、宝船もありました。

冬のくらし。
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様々な用途に応じて作られた草履が面白い。

《足半》
あしなかは足の半分くらいの大きさで、いくさや農作業など、力のいる仕事をする時に使われていました。ふつうのわらぞうりの半分ほどの大きさなので、簡単に作ることがえきた。今から60年ぐらい前までは、日本各地の農家でさかんに作られていた(展示物は湯沢在住の小林さんが手作りしたもの)。

《はっぱき》
農耕、林業の作業用としても使われためずらしい編み方の脛当て。

《つまかけ》
寒くなってから草鞋を履くとき、むき出しのつまさき部分を保護するもの。

《しびがらみ》
寒くなってから草鞋を履くとき、むきだしのかかと部分を保護するもの。

《すっぺ》
かかととつま先が覆われ、靴のような形をしている。雪踏みや屋根の雪掘りまたは山仕事など力仕事のときにも使った。

《石白古銭》
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昭和46年、49年の二回にわたって道路工事現場で見つかった古銭。銭の種類から十五世紀後半に埋められたものと推定されている。古銭の総枚数27万以上で全国第二位(一位は北海道函館市志海苔町の出土銭)の出土量。発掘場所は泉福寺という寺の跡。

2階 雪国の住生活コーナー

民家の茶の間を移築したもの。明治~昭和にかけての生活の様子を再現しています。
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中央にある陶器は《湯たんぽ》で、一段上がったところに置いてある瓶は《ハエ取り器》です。

畳の上にワラ細工が置いてありました。
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《ねこつぐら》
囲炉裏端などに置く、猫の住みか。

《飯つぐら》
ご飯が冷めないように飯びつを入れておくワラ製の保温容器。

《つぐら》
首がすわった赤ちゃんを布でくるんで入れるためのカゴ。農作業のために半日、家を開けるような時に危なくないように入れていた。

1階 ロマン溢れる川端康成の小説「雪国」の世界

こちらでは小説「雪国」にまつわる日本画14点や川端康成の遺愛品などが展示されていました。

川端康成直筆書 昭和60年4月1日》
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雪国館からすぐの主水公園に「雪国の碑」として建立している。

《小説「雪国」のヒロイン駒子の部屋》
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こちらは、ヒロイン駒子のモデルと言われている芸者松栄(本名キク)が住んでいた置屋「豊田屋」を移築再現したものだそうです。

 

電車の時間にせかされて慌しく一巡り、1時間程度の滞在でした。もう少し余裕がほしかったです。ちなみに、2階の雪国の住生活コーナーは、この後行った温泉宿でリアルに体験できました。
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『百段雛まつり』~九州ひな紀行Ⅱ~@目黒雅叙園

久しぶりの目黒雅叙園はひな祭りカラーになっていました。
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お目当ては、百段階段で行われている「百段雛まつり」~九州ひな紀行Ⅱ~です。ちょうど姪っ子が遊びに来ていたので、仲良く中世のお姫様気分を味わおうという算段。

www.megurogajoen.co.jp

百段階段の入り口です。日本三大つるし飾り《さげもん 福岡/柳川市》です。

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大量に下がっているけど、ひとつひとつが可愛らしい。
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51の縁起物をつくり一対を基本として飾られ、娘の幸せを願い家族や親戚などによって作られました。人生50年と言われた昔、50年以上長生きして欲しいという親心から51個になったとされます。

今回、展示室内が撮影禁止だったので、写真はこれくらいしかありません。

九十九段の階段で結ばれた絢爛豪華な7つの部屋に、九州から珠玉のお雛さまが集結。中でも炭鉱王、伊藤伝右衛門邸の座敷雛は圧巻で、単眼鏡を取り出したはいいけれど、どこを見て良いんだか迷うほどでした。

他にも、源氏物語をテーマにしたものがありました。先日出光美術館岩佐又兵衛展で源氏物語に浸った記憶が蘇り、またもやうっとりしてしまいました。ひな壇の背後に源氏物語絵屏風がありましたが、じっくり見る間がなかったのが残念。源氏物語の胡蝶の絵が展示されていて、雅楽迦陵頻を舞う童子が描かれていて、とても可愛らしかったです。

すっかり雅な気分になった後、ラウンジカフェでケーキセット。
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いい気分。

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並河靖之七宝展 明治七宝の誘惑―透明な黒の感性@東京都庭園美術館

寒々しい空の下、旧朝香宮邸です。
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私にとって一年で一番忙しい2月。なんとか乗り切れそうな雰囲気になってきたので、並河靖之七宝展 明治七宝の誘惑―透明な黒の感性に行ってきました。

www.teien-art-museum.ne.jp

明治時代、輸出用美術工芸として人気を博した七宝。並河靖之(なみかわ・やすゆき、1845-1927)は、その中でも繊細な有線七宝により頂点を極めた七宝家です。没後90年を記念する本展は、初期から晩年までの作品を一堂に会する、初めての回顧展です。

京都の武家に生まれた靖之は、久邇宮朝彦親王に仕えたのち、明治維新後に七宝業に取り組み始めます。本展覧会の会場である旧朝香宮邸は、元は久邇宮朝彦親王の第8王子鳩彦王の邸宅。並河靖之は久邇宮で養育係をしていたという話だから、当然鳩彦王とも面識があったことでしょう。旧朝香宮邸が竣工した時期にはもう並河は没していますが、本展は並河靖之と縁ある人の家での開催ということです。

 

以下に気になった展示物をメモ代わりに残します(作者なしは並河靖之)。

 

2《松に鶴図花瓶(一対) 明治6年 ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館》
遠目に虎柄のように見えるが透明感のある茶色の釉薬の上に植線で細かな雲文を作って地としている。

4《蝶に花唐草文花瓶 明治前期-中期 並河靖之七宝記念館》
黄色の班地に蝶唐草文。初期の作品には黄色地に不透明な釉薬が多く用いられ、伝統的な京七宝の手法に則ったものが多い。

8《兎雉図花瓶(一対) 並河靖之に帰属 明治13年頃 ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館》
正面に兎と葡萄、裏面に雉と梅。 並河靖之が考案した茶金石を使う手法が用いられている。茶金石は不透明な赤茶地に金色のラメが入るガラス質。ゴールドストーンとも呼ぶ。

14《龍文瓢形花瓶 明治中期 ギャルリー・グリシーヌ》
瓢箪のように首が細長い一輪挿し。頚部は若草色に菊菱文。胴部は黒地に緑龍が描かれている。龍の胴部が乱反射している。不透明な様々な色粒が見える釉薬に植線で鱗が細やかに描かれている。エメラルドグリーンの鬣に赤い炎が映える。

16《蝶に草花図飾壷 明治中期 清水三年坂美術館》
手のひらですっぽり覆えるサイズの球形の壷。金菊摘みの蓋、口縁と高台は金色。濃紺地に花唐草文、三方に黄色地の窓があり、その中に蝶と草花が描かれている。

25《菊唐草文細首小花瓶 明治中期 並河靖之七宝記念館》
トルコ石の中でも極上の青を思わせる発色の地に菊唐草文の小さな花瓶。華奢な頚部は黄色の菊菱文で肩部と裾部に蓮弁文。

29《菊唐草文花瓶(一対) 明治25年 東京国立博物館
瓶子形の花瓶一対。口縁と高台は緑地に菊花文。肩部に向かい合わせの鳳凰を描いた蓮弁文。胴部は黒地に丸菊唐草文。裾部にも蓮弁文のある東洋の雰囲気を出した作品。

30《蝶に花丸唐草文飾壷 明治中期 京都国立博物館
金菊摘みの蓋のある球形の壷。肩部にぐるりと一周蓮弁模様を分断するようにラインが入る。胴部は花丸文についている葉が蝶の羽のように広がり、蝶の羽ばたきと呼応している。

32《菊紋付蝶松唐草模様花瓶(一対) 明治中期 総本山泉涌寺
口縁部と高台は金地。頚部に菊紋入り。肩部に蓮弁文。胴部は黒地に蝶と松唐草文。一見、菊唐草文に見えるが、よく見ると花びらの四分の一くらいが欠けているネムノキの花のような形。糸状花弁の菊にも見える。蝶の羽は非常に細やかな模様。部分的に茶金石が使われている。

33《桜蝶図平皿 明治中期 京都国立近代美術館
若草色の平皿。周縁部の桜、中央に色とりどりの蝶が舞う。蝶の足は前方に左右二本ずつ見える。裏面は一面の唐草文様。蝶の重なりに速水御舟の《粧蛾舞戯》を思い出す。

34《蝶図瓢形花瓶 明治中期 清水三年坂美術館》
瓢箪型の一輪挿し。頚部は黄地に唐草文。その下には黒地に花丸と五七桐模様。括れには藤花。胴部は黒地に大小の蝶が舞い、裾部には菖蒲が描かれている。

35《花蝶文花瓶(一対) 明治25年 東京国立博物館
瓢箪型の一輪挿し。頚部に菊菱、その下には黄地に蛾。括れには藤花。胴部は小豆色の梨子地で空間を大きくとって色鮮やかな蝶が描かれている。裾部に菖蒲。
33では二本ずつだったのが、こちらの蝶の足は前方に左右三本ずつ描かれていて、文様として試行錯誤したらしいのがわかる。実際のところ、蝶の飛翔時は脚をぶらんと下げているので、上から見ると羽に隠れて見えないのだが、蝶にこだわりのある並河としては、どうしても正確に描きたかったのでしょう。

38《藤草花文花瓶 明治後期 並河靖之七宝記念館》
本展覧会のポスターに使われているもの。口縁部から肩にかけて極彩色だが、胴部は白と紫の藤花房が垂れ下がり、その下に瑠璃色の空間を広く取ることで絵画性のある表現になっている。裾部の蒲公英が愛らしい。 

40《藤花菊唐草文飾壷 明治中期 清水三年坂美術館》
手のひらに収まる程度のサイズ。黒地で胴部にはふくらみがある三脚付の飾壷。蓋と肩にかけては細密な菊唐草文様で白と紫の藤の花房が垂れ下がる。
独立ショーケースに飾ってあり、藤文様の回転性が気になって、この周りをぐるぐる回り続けました。下絵がすぐ近くに張ってあったのですが、それも一部しか描かれていない、とても省略したものだったので、余計に気になりました。

47《四季花鳥図花瓶 明治32年 宮内庁三の丸尚蔵館
黒地に大きく山桜が描かれている。その裏面には青紅葉。樹間を野鳥が飛び、根元に野の花が咲く。夜に木々がライトアップされたかのよう。植線に肥痩がつけられており、例えば幹の根元には太い金属線が用いられて、絵筆で描いたかのような表現をしている。非常に絵画的な作品。青々とした紅葉の葉のグラデーションも見事。

49《花鳥図飾壷  明治後期 清水三年坂美術館》
黒地に銀菊摘みの蓋。蓋部下半分と肩部に菊菱文。蓋の上部と胴部は黒地に黄色の迎春花が鮮やかである。根元に鳥と蓮華草と菫。黒の空間を大きく取った絵画性の高い作品。

52《菊御紋章藤文大花瓶 明治後期-大正時代 並河靖之七宝記念館》
並河靖之作品の中では大型のもの。胴部に菊御紋の入った鮮やかな青地の壷。白と薄紫の藤の花房が垂れ下がる。藤の花の先端が二つに割れてピンセットのような形になっているのが面白い。葉の植線に肥痩をつけている。

63《蝶に竹花図四方花瓶 明治後期-大正時代 清水三年坂美術館》
丸みを帯びた角のある縦長の花瓶。黒地に大きく竹が描かれていて、口縁の覆輪を黒にして壷と連続しているように見せている。黒地の空間を大きく取り、そこに黄白い小さな蝶が舞う。竹の根元には淡い桃色の芥子の花。幽玄な雰囲気がある。

65《五重塔風景文花瓶 明治後期-大正時代 並河靖之七宝記念館》
珍しい風景文の花瓶。五重塔の背景が薄桃色で夕焼け空の静けさを感じる。壷の内側が緑色だった。

68《春日大社風景文扁壷 明治後期-大正時代 並河靖之七宝記念館》
こちらも珍しい春日大社の風景を描いた壷。先日東博の春日大社展に行ったばかりなので興味を引く。扁平な壷で緑地。門前に石灯籠と鹿。空気遠近法で春日山には植線が使われておらず淡く描かれている。他の風景文のも見たが、山の稜線を無線にしていたのはこれだけ。

72《雀茗荷野菊花瓶  明治後期-大正時代 明治神宮
金と銀の植線を使い分け、緑地に可憐な茗荷と雀と野菊が描かれている。食堂にぽつんと一点だけ飾られていたのと、茗荷というモチーフが面白かった。

87《菊花図花瓶(一対) 濤川惣助 明治33年頃 ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館》
並河靖之と同時代を生きた七宝の天才、二人のナミカワのもう一人、無線七宝の濤川惣助の作品。キリッと引き締まる有線の並河靖之の作品とは対照的。白地の一対の花瓶。空間を広く取って大きく白菊小さく紅菊が描かれている。菊の葉のベルベットのような質感を思い出させる色合い。紅菊の方は枯れたような葉の色をしている。
本館二階に上がってすぐのホール、その片隅に展示されていましたが、一目でその幽玄な美しさにほっとため息が出ました。

100《下図「四季草本図」 並河工場 明治時代 並河靖之七宝記念館》
数々の四季の草花の例で、糯躑躅、紫藤、逸初、馬蘭、難波茨、空豆花、李、胡蝶花、菫、山桜、蓮華、連翹、白蓮、寒菊、水仙、山茶梅、迎春花、元寶草が美しく描かれている。余白には動物の例で、雀、山雀、繍眼児、瑠璃、蝶、虻、蜻蛉が描かれている。その上には色見本。並河工場の宝の数々が一覧できるすばらしい下図。

105《下図「舞楽図壷台座付」 並河工場 明治時代 並河靖之七宝記念館》
本展には下図も多く展示されている。その中でも一番気に入ったのが本図。壷の胴部に二人の舞楽青海波の舞い手が描かれているもの。台付の花瓶で山鳩色(暗めのモスグリーン)の地に衣装の青と赤が映える。下絵なため壷の輪郭からはみ出ているのが、余計躍動感を与えている。 

118《下図「ボーダー文様」 並河工場画ノ部 明治時代 並河靖之七宝記念館》
口縁の施される模様の下図。「並河ドロ赤」「ス九番」等細かく釉薬が指定されている。下図は拡大されて描かれているため、その細かな模様がよくわかり、さらに驚かされる。

132《下図「四季花鳥図花瓶」 並河工場 明治時代 並河靖之七宝記念館》
47の下図。
並河工房の優れた下図の多くを中原哲泉が描いた。中原は並河七宝を初期の頃から支えたうちのひとり。

 

本展示は、一周するのに2時間半かかりました。今回は単眼鏡必須な細工ばかりなので、出品数のわりに時間がかかります。途中軽く休憩を入れないと、とても集中力が続かない。終いには目がチカチカしてきました。

 

展覧会を見終わったら、庭園美術館名物のシフォンケーキをいただきます。いつのまにかカヌレ型じゃなくなってたけれど、おいしい。

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庭園は梅が見ごろでした。
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16時半を過ぎて、庭園の奥まで続く遊歩道が既に閉鎖されていたのは残念。思ったよりも展覧会に時間を取られました。